小津安二郎の映画では常に独特な世界観が独特な映像によって作られている。それが「小津的作品」を作り上げていると言っても過言ではない。「おはよう」という作品では小津安二郎が考える虚像と実像が、ストーリーではもちろんの事、その独特な映像の使い方によって鮮明に描かれている。
この映画において実像の象徴は物語の舞台となる下町であり、虚像の象徴となるのがアパートであり都会である。なぜなら下町ではみんな悪口を言いあい、噂を広めあうという、人間の醜い本音の部分が色濃く描かれている。それに対して、アパートに住む英語の先生は挨拶や天気の話しかしないし、都会でも酒を飲みながらどうでもいい話をする薄っぺらなシーンしか描かれていない。これらはまさに人間の虚像と実像ではないだろうか。
この事を小津安二郎は映像によって見事に表現している。例えば、アパートのシーンに移るとき小津安二郎は常にアパートの外観をワンカット入れている。こうする事によってアパートの味気なさや表面だけの豪華さを演出し、虚像という表面だけのものを現している。逆に下町のセットには味があり、色がある。飾っていない実像を表していると考えられる。
さらに、アパートや都会のシーンでの特徴は、セットが少ないということだ。アパートでは部屋の中しか写さないし、都会は飲み屋と駅しか写さない。まさに「表面的な付き合い」を象徴しているといえよう。下町のシーンでは、カットが何度も移り変わり、一つの家から、次の家へ、何度も動いていく。さらに外のシーンなどもあり、下町のカットではすべてがつながっている感じがする。つまりは実像を象徴しているのではないだろうか。
アパートのシーンでとても印象的だったシーンが、そこに引っ越したい人が英語の先生に空き部屋の話をしたときである。
文明史
課題:「おはよう」の世界の虚像と実像
小津安二郎の映画では常に独特な世界観が独特な映像によって作られている。それが「小津的作品」を作り上げていると言っても過言ではない。「おはよう」という作品では小津安二郎が考える虚像と実像が、ストーリーではもちろんの事、その独特な映像の使い方によって鮮明に描かれている。
この映画において実像の象徴は物語の舞台となる下町であり、虚像の象徴となるのがアパートであり都会である。なぜなら下町ではみんな悪口を言いあい、噂を広めあうという、人間の醜い本音の部分が色濃く描かれている。それに対して、アパートに住む英語の先生は挨拶や天気の話しかしないし、都会でも酒を飲み...