幼児の生き生きとした造形活動を促す、導入時の「言葉かけ」「環境設定」のあり方について述べよ。実際に製作し、させた経験、身の回りで見聞きした子どもの事例をあげながら述べること。
かのパブロ・ピカソは、「子どもは誰でも芸術家だ。問題は、大人になっても芸術家でいられるかどうかだ」という言葉を残している。
これは、決して子どものような殴り描きが大人になるとできなくなるということを言っているわけではない。知識や固定観念に邪魔されることなく自らの感性の赴くまま自由に描くことの難しさを言っているのである。つまり、知識と固定観念にがちがちに縛られている大人は、なかなか子どものように自由に描くことができない。だが、子どもは一心不乱に画用紙や粘土に集中し、感じたままに自由に表現することができる。子どもは見ている対象の形や色をイメージで捉えて描くので、子どもが大人より大きくなることもあれば、夕日が黒くなることもある。しかし大人は、子どもより大きいのが当たり前だし、夕日が赤に決まっているというイメージを抱いてしまっている。子どものように夢中になることは大人になるとなかなかできないのである。
また幼児が、造形活動に夢中になるのは、その行為が楽しいからであって、何かを生み出したいからではない。例えば、クレヨンを幼児に渡した場合、本人もよく分からない絵を描く。これは、「クレヨンを使う」という行為を楽しんでいるのであって、「クレヨンで何かを描く」ためではないからである。
クレヨンを画用紙の上で滑らせるとそこに色が付く。それが何色でも色が付く。円く滑らせればその通りに色が付く。ただそれを夢中になってやっているのである。そこには感情を述べているわけでも、意図を残したいわけでもない。ただ一生懸命無我夢中というところだけは、大人になると取り戻すのが難しい状態なのである。
さて、これは確かに子どもにしか出来ないが、これだけをやらせておけば良いのだろうか。確かに、なにもかもが初体験の幼児には意味のある、むしろ邪魔してはいけないほどの価値のある効果が期待できるだろう。しかし、年中・年長になってくるとただクレヨンを渡すだけではいけない。それ以上の環境設定をする必要がある。
この場合の環境設定とは、幼児が造形活動をする際により生き生きと出来るようにするために大人が作る幼児への影響のことを指す。確かに幼児にクレヨンと画用紙を渡すというのも十分環境設定と呼ぶことが出来るだろうが、それだけでは足りないのは先に述べたとおりである。ならばそれ以上の環境設定をする必要がある。それは大きく分けて三つの観点から考えることが出来る。
<1>「素材」に触れられる環境作り
先に述べたクレヨンや画用紙もこの中に含まれる。これは保育者が、幼児が造形遊びの素材を気軽に手に取り触れられる環境を準備することにあるからである。なぜなら、幼児の自由な造形表現への欲求は、保育者の指導よりも、目の前にある「もの」自体への興味から、より強く生じるからである。例え「それ」が我楽多のような物であっても幼児にとっては、色々なイメージや遊びを引き起こすきっかけとなるのである。
よく、幼稚園などで用いられる素材には、砂・石・木・どんぐりなどの自然物や、紙・粘土・ダンボール・ペットボトル・プラスチック容器などの空き容器や廃材など様々なものがある。このような「もの」と関わりながら幼児は、発達に必要な体験を積み重ねていくのである。そのためにも保育者は、自由な関わりができる豊かな素材を、幼児の身近な場所に用意しておくことが大切なのであ
幼児の生き生きとした造形活動を促す、導入時の「言葉かけ」「環境設定」のあり方について述べよ。実際に製作し、させた経験、身の回りで見聞きした子どもの事例をあげながら述べること。
かのパブロ・ピカソは、「子どもは誰でも芸術家だ。問題は、大人になっても芸術家でいられるかどうかだ」という言葉を残している。
これは、決して子どものような殴り描きが大人になるとできなくなるということを言っているわけではない。知識や固定観念に邪魔されることなく自らの感性の赴くまま自由に描くことの難しさを言っているのである。つまり、知識と固定観念にがちがちに縛られている大人は、なかなか子どものように自由に描くことができない。だが、子どもは一心不乱に画用紙や粘土に集中し、感じたままに自由に表現することができる。子どもは見ている対象の形や色をイメージで捉えて描くので、子どもが大人より大きくなることもあれば、夕日が黒くなることもある。しかし大人は、子どもより大きいのが当たり前だし、夕日が赤に決まっているというイメージを抱いてしまっている。子どものように夢中になることは大人になるとなかなかできないのである。
また幼児が...