私は障害を持つ子もそうでない子も、「同じ」なんだということを強く感じるようになった。
この「同じ」というのは、「教師が意識しすぎてはいけない」ということである。もちろん教師には、子どもの監督責任は最低限必要である。なかでも、その子が障害を持っていれば、細心の注意が必要となることは言うまでもない。しかし、それ以上の「手」は必要ないのではないか。学校生活と言うからには、それは楽しいものでなくてはならない。これは、私の考えの中では絶対事項である。もちろん、そこに障害者も健常者も関係ない。学校は楽しい場所でなくてはならないのだ。そのためには、教師は決してむやみやたらと手をだしてはならない。「目を離すな手を出すな」。この精神が、難しいことかもしれないが大切なことだと思う。
例えば、園だよりの「保育について」に書かれていることを見ると、「障害」というものを別枠として考えることはできない、と感じた。こども像、保育目標、保育の内容と方法、どれを見てもそれは、健常児に対しての保育であると同時に障害児に向けての保育、メッセージであることに気づく。特に「あそび」については、「子どもの仕事は遊ぶこと」だと言われるように、成長発達への一番大きな、そして一番大切なステップである。そのことに両者の違いはまったくない。さらに、個性についての内容も書かれていたが、「保育園の保育について」の記述の中で、“こどもにはこどもの世界がある”という部分がある。そしてその後に、“一人ひとりが確固とした人格を持ち、ひとりの人間として尊重されなければなりません”とある。とっても良い言葉なので、さらに引用したいと思う。“それは障害があろうが無かろうが、肌の色がどんな色であろうと、どんな言葉を話そうと・・・・自分と同じ人間であるということを、小さいときから環境として生活の中で意識づけていく必要があります。
学級が障害を持った子どもを受け入れるということ
私は障害を持つ子もそうでない子も、「同じ」なんだということを強く感じるようになった。
この「同じ」というのは、「教師が意識しすぎてはいけない」ということである。もちろん教師には、子どもの監督責任は最低限必要である。なかでも、その子が障害を持っていれば、細心の注意が必要となることは言うまでもない。しかし、それ以上の「手」は必要ないのではないか。学校生活と言うからには、それは楽しいものでなくてはならない。これは、私の考えの中では絶対事項である。もちろん、そこに障害者も健常者も関係ない。学校は楽しい場所でなくてはならないのだ。そのためには、教師は決してむやみやたらと手をだしてはならない。「目を離すな手を出すな」。この精神が、難しいことかもしれないが大切なことだと思う。
例えば、園だよりの「保育について」に書かれていることを見ると、「障害」というものを別枠として考えることはできない、と感じた。こども像、保育目標、保育の内容と方法、どれを見てもそれは、健常児に対しての保育であると同時に障害児に向けての保育、メッセージであることに気づく。特に「あ...