1.アメリカで違憲立法審査権が生まれた経緯
(1)法の支配
違憲立法審査権のルーツはイギリスにおける法の支配の原理に遡る。
エリザベスI世の治世下で,教皇のもつ裁判権は国王に移り,広範な裁判を行う司教の集まりは高等宗務官裁判所と呼ばれるようになり,刑事管轄権を行使するようになった。これに対してコモン・ロー裁判所は高等宗務官裁判所の管轄権を制限する禁止令状を発して牽制した。宗務官裁判所の管轄権の増大を図るカンタベリ大司教バンクロフトは,1608年,コモン・ロー裁判所との管轄権争いを国王の面前に持ち込んだ。時の国王,スチュアート王朝の初代ジェームズI世は,大司教に加担して自らこの問題に結論を出そうとした。
これに対して時の民訴裁判所の首席裁判官クックは,国王もまた神と法の下にあるというブラクトンの言葉を強調し,コモン・ロー裁判所の優位を説いた。ここに現れる法の支配の精神はその後のピューリタン革命,名誉革命においても一貫して主張され,イギリス憲法の確たる基本原理となっていく。
更にクックは,ボーナム事件判決の中で,国会に対してもコモン・ロー裁判所の優位を主張した。これはある医師が医師会の許可なしに開業して拘禁されたので不法監禁の訴訟を提起したものであるが,傍論で,「国会制定法が,一般の正義と理性に反し,コモン・ローに反し,または執行不能の場合には,コモン・ローはかかる制定法を抑制し,それを無効と判決するであろう」と述べたのである(Dr. Bonham’s Case(1610), 8 Co. Rep. 114 a, 77 Eng. Rep. 646, 652)。この見解は後に述べる国会主権の原理が確立すると否定されるに至ったが,米国における違憲立法審査制の根拠となったものである。
この思想は,植民地時代の米国に多大な影響を及ぼした。
なぜ、アメリカで違憲立法審査権がうまれたか。イギリスではどうだったか。両者の違いを考慮し論ぜよ。
アメリカで違憲立法審査権が生まれた経緯
法の支配
違憲立法審査権のルーツはイギリスにおける法の支配の原理に遡る。
エリザベスI世の治世下で,教皇のもつ裁判権は国王に移り,広範な裁判を行う司教の集まりは高等宗務官裁判所と呼ばれるようになり,刑事管轄権を行使するようになった。これに対してコモン・ロー裁判所は高等宗務官裁判所の管轄権を制限する禁止令状を発して牽制した。宗務官裁判所の管轄権の増大を図るカンタベリ大司教バンクロフトは,1608年,コモン・ロー裁判所との管轄権争いを国王の面前に持ち込んだ。時の国王,スチュアート王朝の初代ジェームズI世は,大司教に加担して自らこの問題に結論を出そうとした。
これに対して時の民訴裁判所の首席裁判官クックは,国王もまた神と法の下にあるというブラクトンの言葉を強調し,コモン・ロー裁判所の優位を説いた。ここに現れる法の支配の精神はその後のピューリタン革命,名誉革命においても一貫して主張され,イギリス憲法の確たる基本原理となっていく。
更にクックは,ボーナム事件...