近世は武士の支配する世であったが、庶民の台頭が目覚ましく、教育の面にもそれは明らかであった。現実に根ざした教育要求に支えられて、藩校、寺子屋、私塾などの設立が特に時代の後半に活発になり、その内容も多様化していく。
藩校には広狭の二種の意味がある。藩士の師弟に対して、主として漢学による文字の学習や教養を学ばすための学校として、また武芸稽古所、武官、武学校なども含めての藩校と、さらに広く医学校、洋学校、国学校、兵学校などを含める場合の藩校である。ここでは、前者である狭義の意味での藩校をとりあげ述べたいと思う。
藩校は、武士の子弟の教育機関であり、儒学を主とする漢学を中心に、学問を修める学校である。
最古のものは、1641年に、岡山藩主「池田光政」が設立した「花畠教場」だが、多くは、江戸時代後期に設立され、発展期には250校を数え、ほぼ全藩に作られた。武士の子弟に対して入学を強制した藩が多く、一部には平民の入学も許容され、とくに維新以後その数を増している。
入学および卒業の年令は一定せず、その機能・性格もことなっているが7、8才での入学が多く、とくに寛政期以降、初等教育場を併設した藩校がふえている。卒業年令は、三分の二近くが20才以前であり、15才までとしている場合も全体の29%におよんでいる。武士という特定の階級の学校であり、在学年令も高い。藩校を学制期の小学校と直接つながりをもつ学校とみることはできないが、学制期以降の小学校の考察にとって、藩校は次のような点において重要な位置を占めている。
藩校について
近世は武士の支配する世であったが、庶民の台頭が目覚ましく、教育の面にもそれは明らかであった。現実に根ざした教育要求に支えられて、藩校、寺子屋、私塾などの設立が特に時代の後半に活発になり、その内容も多様化していく。
藩校には広狭の二種の意味がある。藩士の師弟に対して、主として漢学による文字の学習や教養を学ばすための学校として、また武芸稽古所、武官、武学校なども含めての藩校と、さらに広く医学校、洋学校、国学校、兵学校などを含める場合の藩校である。ここでは、前者である狭義の意味での藩校をとりあげ述べたいと思う。
藩校は、武士の子弟の教育機関であり、儒学を主とする漢学を中心に、学問を修める学校である。
最古のものは、1641年に、岡山藩主「池田光政」が設立した「花畠教場」だが、多くは、江戸時代後期に設立され、発展期には250校を数え、ほぼ全藩に作られた。武士の子弟に対して入学を強制した藩が多く、一部には平民の入学も許容され、とくに維新以後その数を増している。
入学および卒業の年令は一定せず、その機能・性格もことなっているが7、8才での入学が多く、とくに寛政期以降、初等教育場を併設...