哲学レポート

閲覧数27,234
ダウンロード数173
履歴確認

    • ページ数 : 4ページ
    • 全体公開

    資料の原本内容

    デカルトのいう、「われ思う故にわれ在り」どのようなものなのか、この言明の意味・意義について考えていく。
    「われ思う、故にわれ在り」(私は考える。だから、私は存在する)。これはフランスの哲学者であるルネ・デカルトの有名な言葉だ。
     デカルトは、感覚や経験による知識が多くの誤りを含むものとの考えから、真なる知識を求めて、すべてを疑うことから出発した。
     まず始めに疑ってみたのは、自分の外部に対する感覚的知識であった。つまり、自分が見たり聞いたりしていることは本当かどうかということであった。
    遠くから見ると丸かったものが近くで見ると星型であったりすることがあるように、人間が見たり聞いたりという感覚には錯覚がつきものであり、確実な知識とは言えないのだ。このことから、感覚的知識は疑わしいといえる。
     更にデカルトは、自分自身の身体感覚でさえ疑ったのだ。なぜなら、私は今レポートを書いている事を確かに感じているのだが、実はそのような夢を見ているだけかもしれないというのだ。
     確かによく考えてみると、私自身も夢を見ているとき、現実との区別がつかないときがある。よって夢と現実の区別はそれほど明確ではないのだから、身体感覚も疑わしいといえる。
     
    このようにしてデカルトは、身の回りの全ての知識を懐疑し、もはや確実な知識は何も存在しないという考えを持つまでに至った。ここで考察を止めてしまえばデカルトはただの懐疑主義者で終わってしまったであろう。しかしデカルトはここで考察を辞めなかったのである。その結果、次のことに気付いたのである。
    「(今私がそのように疑っている)ということだけは、疑いえない。私が疑えば疑うほど、疑う私の存在は疑うことができなくなる。疑うということは、疑わしく思うことである。疑わしいと思えば思うほど、そう思う私は存在する。」というのだ。
    疑うことを疑っても、最終的には疑うということを認めざるを得ない。つまり疑うということは疑うこと自体ができず、私が疑っているということは疑えないということだ。
    疑っている自分はどうしても疑うことができないとするなら、私は存在するということになり、それゆえ「われ思う、故にわれ在り」(私は考える。だから、私は存在する)なのである。デカルトはこの命題を絶対疑いえない真理とみなし、これを哲学の第一原理としたのである。
    デカルトのこの考え方は哲学史の中で繰り返し批判され続けるという結果を招いたのである。それほど批判された考え方は意義がないであろう。しかし、デカルト以降の哲学史はデカルトの批判によって発展していったと言っても過言ではない。何度も何度もデカルトに立ち返っては批判が行われてきたということは、ここにこそ思考の原点があると、デカルト以降の哲学者が考えたからに他ならないであろう。それほど、デカルトの第一原理である「われ思う、故にわれ在り」は意義があると考える。
    以上、述べたことが「われ思う、故にわれ在り」の言明の意味・意義である。次に、デカルトの「われ思う、故にわれ在り」の「われ」はどのようなものなのかについて述べていく。
    デカルトの述べた「われ」とは「われ」と名乗れる全てのものなのであろうか。もし仮にそうだとしたら、誰についてでも言えることであるため、「われ」と名乗れる者にとっての真理となる。
    しかし、そうであるならば、他人も含めて誰もが当てはまってしまうことになるであろう。
    私と他人が何の疑いもなく同じだということが、疑問の余地なく言えるのであろうか。このことから「われ」とは、「われ」と名乗れる全てのものとは言い難い。
    では、「われ」とはデカルト自身のことだろうか。しかし、デカルト自身の考えならば、どんなに人に分かるような文章にして発表したとしても、それはデカルトだけの特殊な体験談でしかない。そのため、誰も共有できないであろう。よって「われ」とはデカルト自身のことであるとは言い難い。
    この様に「われ」とは「われ」と名乗れる全てのものでも、デカルト自身のことでもない。むしろ、今「われ」とはどのようなものかと(考えている)私なのである。なぜなら、「われ」と名乗っているものも、デカルトがいたということも疑わしいからである。この「われ」は、心・精神・意識としての私、いわゆる自我なのである。この私の心、それがあるということだけは確かだという一点から、デカルトは出発したのである。
    デカルトも自分が本当に真実を見出せるとは考えていなかったかもしれない。ただ、もし見出そうとするなら、この方法しかなかったのであろう。この方法で見出せないとするなら、真実など決して見つからないと確信していたからである。しかし、デカルトは勇気をもって疑いつづけた結果、決して疑えない絶対的な真実を見出したのである。
    (参考文献)
    デカルト著 落合太郎訳『方法序説』1993年
    中島恒雄著『保育児童福祉要説』中央法規出版株式会社 2004年
    中島恒雄著『レポート・試験はこう書く 新・社会福祉要説』ミネルヴァ書房 2005年
    第1章 哲学とは何か
    http://www6.plala.or.jp/swansong/000400wareomounowaretohadareka.html 
     
                  デカルト的自我について
                   20613114 古賀智子

    コメント0件

    コメント追加

    コメントを書込むには会員登録するか、すでに会員の方はログインしてください。