普仏戦争について

閲覧数3,476
ダウンロード数11
履歴確認

    • ページ数 : 5ページ
    • 会員550円 | 非会員660円

    資料紹介

    5月にドイツ研究の授業内でビスマルクについてプレゼンテーションをさせて頂いたが、今回はその中の普仏戦争に焦点を当ててみたいと思う。特になぜこの戦争が起きたのか、そしてこの戦争によってプロイセンとフランス両国になにをもたらしたかについて迫っていきたいと思う。
    まず戦争の根本的原因は,フランスのナポレオン3世による,ドイツ統一への妨害工作にあった。普墺戦争後,マイン川以北にはプロイセン中心に北ドイツ連邦が成立したが,南ドイツのバイエルン・バーデン・ヴュルテンベルクは,プロイセンと攻守同盟と関税同盟によって結びつけられていたとはいえ,反プロイセン感情は,いぜんとして強かった。とくにバイエルンとヴュルテンベルクでは,1868〜70年に反プロイセン勢力の成長が著しかった。南ドイツにおける反プロイセン的動向は,ナポレオン3世の妨害工作と連動していた。プロイセン首相ビスマルクは,その政治戦略の基本を,ナポレオン3世を討つこと,このことを通じてドイツ全土をナショナリズムの熱火に溶かしこみつつ,統一を完成することにおいた。このようなとき,スペイン王位継承問題がおこった。1868年9月,スペインで革命がおこり,立憲君主制が確立され,新国王として,プロイセン王家ホーエンツォレルン家の支流ジグマリンゲン家の王子レオボルトに白羽の矢が立てられた。ナポレオン3世はこれに反対し,ビスマルクは推進した。フランス側の強硬な圧力のまえに,1870年7月13日,エムスの離宮にいたプロイセン王は,ついに折れ,その旨をビスマルクに打電した。ビスマルクはこれに手を加えて公表した。これが俗に言うエムス電報事件である。これによって独・仏両国の世論は沸騰し,フランスは7月19日プロイセンに宣戦した。

    資料の原本内容 ( この資料を購入すると、テキストデータがみえます。 )

    5月にドイツ研究の授業内でビスマルクについてプレゼンテーションをさせて頂いたが、今回はその中の普仏戦争に焦点を当ててみたいと思う。特になぜこの戦争が起きたのか、そしてこの戦争によってプロイセンとフランス両国になにをもたらしたかについて迫っていきたいと思う。
    まず戦争の根本的原因は,フランスの ナポレオン3世 による,ドイツ統一への妨害工作にあった。 普墺戦争 後,マイン川以北にはプロイセン中心に 北ドイツ連邦 が成立したが,南ドイツのバイエルン・バーデン・ヴュルテンベルクは,プロイセンと攻守同盟と関税同盟によって結びつけられていたとはいえ,反プロイセン感情は,いぜんとして強かった。とくにバイエルンとヴュルテンベルクでは,1868~70年に反プロイセン勢力の成長が著しかった。南ドイツにおける反プロイセン的動向は, ナポレオン3世 の妨害工作と連動していた。プロイセン首相 ビスマルク は,その政治戦略の基本を, ナポレオン3世 を討つこと,このことを通じてドイツ全土をナショナリズムの熱火に溶かしこみつつ,統一を完成することにおいた。このようなとき,スペイン王位継承問題がおこった。1868年...

    コメント0件

    コメント追加

    コメントを書込むには会員登録するか、すでに会員の方はログインしてください。