あるものが存在すると、それが存在することによって、その存在に対立する対象が必然的にあらわれてきます。そうして、ある存在は、自己とその対象との関係にまとわられ、解決の運動をはじめます。
認識を意識作用と意識対象の静の構造とするならば、実践は両者の動的構造であると言えよう。認識と実践との動的円環構造において、認識の終点は新たな実践の始点であり、実践の終点は新たな認識の始点である。
自己存在は認識と実践との存在論的根拠である。また認識と実践とは、究極的には自己存在の存在、そのものへの根源的志向性によって推進され、促進される。この関連において、認識は自己存在による存在そのものの存在論的了解の一環である。
自己存在と存在了解の観点から認識と実践との関連について
あるものが存在すると、それが存在することによって、その存在に対立する対象が必然的にあらわれてきます。そうして、ある存在は、自己とその対象との関係にまとわられ、解決の運動をはじめます。
自己存在の存在的地盤は「身体」である。身体は意識作用と意識対象との出会い、自我と他我との連接点、いわば、自己存在と他己存在との通路でもある。身体は世界のうちに、投げ出されているのであるが、同時にまた世界の中心でもある。
一般にモナドの存在はそれが、それ固有の時空間を占有することによって、またその限りにおいてのみ可能である。人間というモナドの存立は、そ...