東アジアポスト植民地論レポート
私は、いくつかの参考図書の中から「安住しない私たちの文化」(姜信子著)を選び、読むことにした。この本の内容を要約すると、以下のようになる。
名前は文化であるといえる。たとえば、日本では「日本人の氏名をただひとつの名前として持つ者とは、日本人の血をもち、日本語を話し、日本文化を生きる日本国民である。」という暗黙の大前提がある。すなわち、明治維新で日本人が苗字を持つことを許されてからというもの、日本人の名前を持つということは、日本という近代国家に結び付けられることであり、日本の文化を生きていくことでもあった。作者は、4つの名前を持っている。この日本において作者のように複数の名前を持つということは例外的であり、彼女には自分がひとつの文化に収まりきれていないという意識がある。一方で、さまざまな意味を持った名前を排し、数量化、番号化する動きも見受けられる。そういった意味では我々は今まで名前を通して結び付けられていたさまざまな世界や意味から自由になったスタート地点に立っているともいえる。
近代文明とは恐ろしく野蛮なものである。アメリカの白人によるネイティブアメリカン虐殺現場や、ユダヤ人の強制収容所でも、音楽が流れていた。音楽は近代において国民の強力な一体感を呼び起こすために、意識的に、きわめて政治的に使われるようになった。黒船の来日のときもそうである。西洋の列強は半野蛮とされていたアジア諸国に軍楽隊のマーチに乗って上陸したのである。そして洋楽はアジア諸国にも広がるのである。西洋諸国から野蛮とされていたころの日本は平和で穏やかであった。しかし、文明国と認識されてからは戦争での殺戮など野蛮な道に走るという矛盾した状況がこのころであった。
西洋近代の到来まで東アジア世界における最高の文明国は一貫して中国であった。近代以前の中国人、そして朝鮮人の日本人に対する意識は、「アジアの辺境の島に生きる低俗で野蛮な民族」というものであった。それに対して、日本は東アジアでいち早く近代化に成功すると、中国人、朝鮮人に対してかたくなに近代化を拒む未開で無知蒙昧な人々という意識を持っていた。日韓が互いを見る眼差しは現在に至るまで、相互に、異なる意味で対等なものではなかった。
建設中の明治国家では、すべての日本人の眼差しを天皇に集めることが非常に大きなテーマとなった。それなくして日本の近代化はなかったとさえ言える。そのための誘導手段として用いられたのが「日の丸」であり、「君が代」なのである。国旗は、東アジアにおいては近代を迎えて初めて、国際社会での自他の関係を前提に、自らの存在を明らかにするために立てられるようになったものである。そしてこの自他の関係の中で生み出されていった記憶がその国旗の持つ意味を決めてゆく。「日の丸」が国民統合の象徴としての意味合いを持つ国旗として法制化された今、国際社会の中で「日の丸」が意味していることを我々日本人は再認識すべきである。
「故郷」という言葉がある。この言葉は「国家」あるいは「民族」という発想の枠組みにされてきた。そして国家や民族といった「創造の共同体」への愛や忠誠心を下支えする抽象的な愛郷心の宿る場所へとひそかにすりかえられたままの「故郷」を離れ、流浪する人々が東アジアには多く存在した。
日本で100年以上も前に生まれた「天然の美」という歌がある。この日本では忘れられかけている歌が現在中央アジアでコリョサラム(高麗人)によって歌い継がれている。コリョサラムとは、朝鮮からロシアの沿海州に渡り、社会主義となったソ連に中央
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私は、いくつかの参考図書の中から「安住しない私たちの文化」(姜信子著)を選び、読むことにした。この本の内容を要約すると、以下のようになる。
名前は文化であるといえる。たとえば、日本では「日本人の氏名をただひとつの名前として持つ者とは、日本人の血をもち、日本語を話し、日本文化を生きる日本国民である。」という暗黙の大前提がある。すなわち、明治維新で日本人が苗字を持つことを許されてからというもの、日本人の名前を持つということは、日本という近代国家に結び付けられることであり、日本の文化を生きていくことでもあった。作者は、4つの名前を持っている。この日本において作者のように複数の名前を持つということは例外的であり、彼女には自分がひとつの文化に収まりきれていないという意識がある。一方で、さまざまな意味を持った名前を排し、数量化、番号化する動きも見受けられる。そういった意味では我々は今まで名前を通して結び付けられていたさまざまな世界や意味から自由になったスタート地点に立っているともいえる。
近代文明とは恐ろしく野蛮なものである。アメリカの白人によるネイティブアメリカン...