自然科学史Ⅱ
『中国における日月食予測法の成立過程ついて』
古代中国では、天命の思想によって異常な天文現象は地上の失政に対する天の警告であるとみる考え方があったので、天文現象の予測ができるかどうかは政治ともかかわる重大な問題であった。まず最初に昼夜の交替、月の満ち欠け、そして季節の循環により暦法が確立し、天文現象の予測が可能になった。そして、暦法の制定の次に日月食の予測が試みられた。中国の正式な暦法では、前漢末に成立したリュウキンの「三統暦」で五惑星の運行と月食予測法が最初に扱われた。
1.半食年周期を使った月食予報
中国で最初に食の発生の規則性に言及したものは、『史記・天官書』の記述であった。このなかで示されている月食の規則性は、「三統暦」の月食予測法の先駆であって、月食が半食年ごとに起こるとするものであった。しかし、ここで半食年とされていた日数は正確ではなかったため、司馬遷の時代には月食に規則性があることは気づかれていたが、その規則性はまだ正確には把握されていなかった。
前漢末には、リュウキンが「三統暦」を編纂し、そのなかで月食予測法に関して記述した。ここで書かれている月食予測法から導き出された周期と現代において観測された月食とを比べてみると、半食年周期で必ず起こるわけではないが、起こるとすればその周期に乗っている。そして月食はそのときに月が見えているすべての地域で見えるので、一か所に定住している人にとっても三回か四回連続して月食が周期的に見えることが時々ある。おそらく、前漢の天文学者もこのような月食の周期性を長年の観測によって経験的に見つけだしたのであろう。「三統暦」が編纂された当時は、異常な天文現象は不吉と考えられていたから、予想外の月食が起これば人々は大騒ぎをしていたであろう。しかし、「三統暦」における月食予測法によれば、予測されたときに必ず月食が起きるとは限らないが、予測されなかったときに月食が起きる心配はほとんどなかった。このことから、この方法は当時としてはけっこう実用になったのであろう。
ところで、この月食予測法は、一種の経験法則として見つけだされたものであり、本当に成り立つのかどうかは、なかなか確信を得られないものであった。このような予測を正確なものとするには、食現象に対する認識がより深い段階に飛躍しなければならなかった。深い段階へと飛躍したのが後漢末である。後漢末には「乾象暦」が完成した。
2.乾象暦の食予報
『晋書・律暦志』に収録された後漢末の劉洪の「乾象暦」そのものの中には、食予報については「推月食」という項目に半食年ごとに月食が起こるとする予測法が記されているのみだが、『晋書・律暦志』の中には劉洪が朔望のときの太陽・月の交点距離を用いて食の可能性を吟味していたことを示唆する記事もあり、そして「乾象暦」の中にはそれを行うのに必要な情報が十分に与えられていた。したがって、劉洪は本格的な日月食予報の方法を確立したといってよいであろう。「乾象暦」では、「乾象暦」全体の計算の起点であるものを「上元」と呼び、その「上元」は、この月食予報の計算の起点でもあり、その形の「天正」の直前の月に月食が起こり、その「天正」から893年ごとに同じパターンで月食が起こるとしている。
また、劉洪は太陽・月の交点距離を用いて日月食を予測する方法を事実上確立した。「三統暦」の段階では仮説に過ぎなかった月食周期が、「乾象暦」ではより高次の月運動論の立場から、その半食年周期としての意味が確立され、そして月食予測法としての限界も明らかにされた。
3
自然科学史Ⅱ
『中国における日月食予測法の成立過程ついて』
古代中国では、天命の思想によって異常な天文現象は地上の失政に対する天の警告であるとみる考え方があったので、天文現象の予測ができるかどうかは政治ともかかわる重大な問題であった。まず最初に昼夜の交替、月の満ち欠け、そして季節の循環により暦法が確立し、天文現象の予測が可能になった。そして、暦法の制定の次に日月食の予測が試みられた。中国の正式な暦法では、前漢末に成立したリュウキンの「三統暦」で五惑星の運行と月食予測法が最初に扱われた。
1.半食年周期を使った月食予報
中国で最初に食の発生の規則性に言及したものは、『史記・天官書』の記述であった。このなかで示されている月食の規則性は、「三統暦」の月食予測法の先駆であって、月食が半食年ごとに起こるとするものであった。しかし、ここで半食年とされていた日数は正確ではなかったため、司馬遷の時代には月食に規則性があることは気づかれていたが、その規則性はまだ正確には把握されていなかった。
前漢末には、リュウキンが「三統暦」を編纂し、そのなかで月食予測法に関して記述した。ここで書かれている月食予...