永井隆は、厳密には教会で認められた聖人ではなく、また現時点において列聖あるいは列福されている人物でもない。しかし彼は、身も心もイエス=キリストによって生かされ導かれて、死の直前まで平和を訴え続けた。キリストを通して神との対話のうちに、この世の苦しみと人間どうしの憎しみとを鋭いまなざしをもって見つめ、その結果としての戦争という愚挙を再び繰り返さぬために、互いに愛し合い、許し合う道を説き続けた姿は、キリスト教的霊性と深く響き合っているといえよう。この点において、ここでの紹介に値すると著者が考えるものである。ここではまず、永井隆の生い立ちを述べ、その生涯を貫く霊性について考究する。そして、その霊的な生き方が示す現代的な意義を考察したい。
1908(明治41)年2月3日、永井隆は島根県松江市 町にて医師である父・ と母・ツネのもと、5人兄弟の長男として誕生した。小、中学校を通じて、どちらかといえば内面的で読書などを好み、勉強好きであった彼は、松江高等学校の理科乙類に進学し、当時隆盛を極めていた科学万能主義に傾倒し、唯物論思想の正しさを確信していたという。その後、医師を志して長崎医科大学に入学してからも唯物論的科学主義を信奉する姿勢は変わらなかった。
「医科大学に入っていきなり死体解剖を学び、これが人間の本体だと教えられた私は、ごく簡単に人間は物質にすぎないと思い込んでしまったのです。人間の全体としての巧妙な構成、細部の精密な組織など研究すればするほど感心しましたが、結局私が取り扱っているのはどの面から見ても物質でありました」
ところが、医大三年の1931年3月に母・ツネが急逝したことによってこの考え方は180度転回する。人間とは単なる物質以上の何かである、ということをふいに悟ったのである。
「私を産み、育て、愛しつづけた母は別れに臨んで、私を見つめ、その目は『お母さんは死んでも霊魂は隆ちゃんのそばにいつでもいるよ』と確かに言っていました。霊魂を否定していた私が、その目を見た時、何の疑いもなく、母には霊魂がある、その霊魂は肉体を離れ去っても永遠に滅びないのだと直感しました」
永井の霊的な生き方の礎はこの体験に発生を見ることができよう。以後、医の本領は人間の魂を救うことにある、と自覚し、たとえ患者の命を救うことができなくても、せめて魂は救いたい、という強い信念のもとに医者としての道を歩んでいく。そしてちょうどその頃、浦上天主堂近くに下宿を始め、そこでの家族とのふれあいからキリスト教に目を向けるようになるのである。
1933年、25歳になった時に、永井は幹部候補生として広島歩兵連隊に入隊し、満州事変へ出陣することとなる。その際、下宿先の森山家の娘であり、後に永井の妻となる緑から贈られた『公共要理』を熱心に読み、その後の支那事変での従軍までを通じて、日本の軍医という立場を超え一人の医者として、敵・味方の別なく傷病者の救護に献身し、中国難民の生命をも救ったといわれている。1934年6月、永井は受洗し(霊名パウロ)、8月にはマリナ・緑と婚姻の秘蹟を受けて、聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ会の会員としても活躍するようになる。
中国従軍を終えた1940年、永井は長崎医大物理的療法科の助教授に任命され、精力的に研究・指導を進めるが、その過程において多量の放射線を浴びたことにより放射線研究者の宿命ともいえる慢性骨髄性白血病を発病、余命は3年と診断される。そして、1945年8月9日、長崎に原子爆弾投下、永井は被爆し、最愛の妻を失うのである。
白血病発病と被爆、
永井隆は、厳密には教会で認められた聖人ではなく、また現時点において列聖あるいは列福されている人物でもない。しかし彼は、身も心もイエス=キリストによって生かされ導かれて、死の直前まで平和を訴え続けた。キリストを通して神との対話のうちに、この世の苦しみと人間どうしの憎しみとを鋭いまなざしをもって見つめ、その結果としての戦争という愚挙を再び繰り返さぬために、互いに愛し合い、許し合う道を説き続けた姿は、キリスト教的霊性と深く響き合っているといえよう。この点において、ここでの紹介に値すると著者が考えるものである。ここではまず、永井隆の生い立ちを述べ、その生涯を貫く霊性について考究する。そして、その霊的な生き方が示す現代的な意義を考察したい。
1908(明治41)年2月3日、永井隆は島根県松江市 町にて医師である父・ と母・ツネのもと、5人兄弟の長男として誕生した。小、中学校を通じて、どちらかといえば内面的で読書などを好み、勉強好きであった彼は、松江高等学校の理科乙類に進学し、当時隆盛を極めていた科学万能主義に傾倒し、唯物論思想の正しさを確信していたという。その後、医師を志して長崎医科大学に入...