トランスジェンダーがことさら女性または男性になろうとすること

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    トランスジェンダーがことさら女性または男性になろうとすること
    トランスジェンダーはたいてい、生まれながらの男性や女性と同じようになろうとする。大なり小なり、典型的な「男性」とか「女性」という、ステレオタイプを受け入れ、さらには生まれながらの男性や女性よりはるかに「男らしく」「女らしく」なろうとする。そのため、トランスジェンダーは「男」「女」という、二分的な性別の存在を前提として、その越境を行うのであり、「男」「女」という区分なしには存在しえない、ともいわれる。  生まれたときの性別のステレオタイプに固定されることをあれほどまで嫌った人が、なぜもうひとつのステレオタイプには、自ら進んで固定しようとするのだろうか。  これは、性同一性障害の人も、異性装の人も変わらない。  ひとつに、そうしなければ生活できない、ということがあるかもしれない。トイレも男女別に分かれているし、街を歩いたり人に会うときも、どちらかの性に属していなければ不都合だ、ということもある。国によれば、それで命を落とすこともあるかもしれない。  しかし、たいていの人は外から強制されてそうするわけではない。多くの場合、自ら好き好んでそうするのである。服だって、もともと典型的な男性または女性以外の選択肢が乏しいとはいえ、好まれるのはこれでもかと思うほど、男性的または女性的なものである。中性的なものや、もとの性別を想起させるようなデザインのものは、むしろ敬遠される。自己決定とはいっても、非常に限られた選択肢のなかから、予想のつく範囲のなかでしか、行われない、そんな気がする。  ジェンダーアイデンティティ、すなわち性別の自己認識は、たとえば自分が女であるということは、自分が女であるというよりは、男でないということによって証明される。性別のアイデンティティはそれ自体存在しているのでなく、他者との関係性のなかに存在している。つまり、自らの性別の認識は、他者のそれと異なる自分のイメージを発見することによって、形成される。その自らのイメージを、自ら自身であると引き受け、造り上げることによって、自ら自身になる。  しかしながら、他者と異なるイメージは、自ら造り出すことのできるものではない。言い換えれば、「言語」によって用意されているに過ぎない。そして、前述のように、アイデンティティが他者と異なるイメージを造ることにより、形成されるとすれば、ときには過剰に、その他者との差異を強調しなければならなくなる。さらに性別を移行するトランスジェンダーの場合、かつての私=内なる他者とも、対峙しなければならない。  「女」である「私」は、外に存在する「男」とは異なると同時に、かつての「私」である「男」とも異なる。異なることによって、「私」は「女」である。「男」である「私」は、外に存在する「女」とは異なると同時に、かつての「私」である「女」とも異なる。異なることによって、「私」は「男」である。  イラク戦争や、その他いろいろなアメリカが関わった戦争において、戦闘の最前線には、いわゆるエスニック・マイノリティに該る兵士が多数配置されていて、それも強制されてでなく、自ら志願してのことだという。「アメリカ人」になるために。  トランスジェンダーの場合はとりわけそうであるが、私たちは逃げどころのない、ジェンダーという「言語」の円環の中にいる。その中で、「他者」と異なるものとして、「自己」を拾い集めるしかない絶望の中にいる。しかし、その円環が見えているのと見えていないのとは、大きな違いである。
    資料提供先→  http://homepage2.nifty.com/mtforum/ge025.htm

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