ジェンダーは世界最大の暴力装置である

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    ジェンダーは世界最大の暴力装置である
    蔦森 樹
    琉球大学法文学部・立教大学文学部兼任講師
    国際基督教大学社会科学研究所・上智大学社会正義研究所共催 2002年度「第22回国際シンポジウム」ステートメント
    原稿初出:『日本における正義:国内外における諸問題』
    (国際基督教大学社会科学研究所・上智大学社会正義研究所編) 所収
    2003年・御茶の水書房
    性は限りなく実体化した可変概念
     一般的には人間には性があり、男でなければ女だと考えられています。生物学的な見地や医学的見地がこれに加わると男性もしくは女性、それ以外の例外に半陰陽があるといわれています。しかしそうなのでしょうか。
     生まれた性と逆の性別で生きるトランスジェンダーの人や、精神病の疾病名称である「性同一性障害」といった個人の状態につけられた新しい呼び名も含めて、男、女、半陰陽もすべてはあとからつけられた「ラベル」なのではないでしょうか。
     性だけではなく、人間につけられたさまざまなラベルの拡充と区別が昨今とても大事にされ、社会的な属性になり、階級形成の根拠に使われ、個人のアイデンティティの一部にも強く用いられています。ただの自分がただ存在することにではなく、ラベルこそが自分を証明するものになっています。
     性は目や心臓のように自分の体の一部であり、各人の顔が異なるようにたとえば外性器の形も寸部たがわない同一のものはなく、全員を並べてみればまったく個人的で微妙に多彩なありようの連続性です。たったふたつの形があるわけではありません。
     すなわち「性がある」という概念と「その性には男と女がある」という二元的な上位カテゴリー(ラベル)自体が、決して普遍的な事実ではないことに強く留意が必要です。
     性は、人種や民族などとともに人間身体につけられた社会的属性のひとつであり、上位カテゴリーを作る一概念です。それらは「限りなく実体化した可変概念」と呼べるものです。
     現行の社会概念である「人間には性があり、性には男と女しかない」の傘下で生きると、男と女のラベル以外の個人的ということが、微妙に、そして程度によっては大きく逸脱を起こすべき「病理として囲い込まれ」ます。身も心も生き方までもが「医療化されてゆく」結果に導かれています。これは医療概念による人間身体と自尊感情の植民地化と言ってもかまわないと考えます。植民地化は、先進諸国の開発援助に含まれる医療援助によって、すでに地球のどの場所においても完了しているのではないでしょうか。今では西側医療規範が、人間とは何かを決める地上で唯一の権力になっています。
    例えば、ゲイの人やレズビアンの人たちが「人が人を好きになった」ということが、1975年には精神障害とされました。この米国精神学会の決定を受けてWHOが国際疾病分類には同性愛を精神障害と決め、同性愛は世界標準の疾病(病名)になりました。
    しかし人が人を好きになること自体がなぜ病気なのか? 考えると社会的規範に逸脱するからという理由しかありません。社会のレギュレーションの狭さの問題であり、病理の問題ではないことが指摘され、93年に米国精神医学会が「精神疾患の診断と統計のためのマニュアル第三版」(DSM-3)の精神障害リストから「いかなる理由をもっても」という強い一文を付け加えて疾病リストから同性愛を削除、同年にWHOが国際疾病分類から同性愛を削除される最近の経緯がありました。
    日本でも日本精神神経学会がWHOの基準変更を受けて、それまで精神障害とされた同性愛が疾病単位から削除されています。95年に日本精神神経学会は

    資料の原本内容

    ジェンダーは世界最大の暴力装置である
    蔦森 樹
    琉球大学法文学部・立教大学文学部兼任講師
    国際基督教大学社会科学研究所・上智大学社会正義研究所共催 2002年度「第22回国際シンポジウム」ステートメント
    原稿初出:『日本における正義:国内外における諸問題』
    (国際基督教大学社会科学研究所・上智大学社会正義研究所編) 所収
    2003年・御茶の水書房
    性は限りなく実体化した可変概念
     一般的には人間には性があり、男でなければ女だと考えられています。生物学的な見地や医学的見地がこれに加わると男性もしくは女性、それ以外の例外に半陰陽があるといわれています。しかしそうなのでしょうか。
     生まれた性と逆の性別で生きるトランスジェンダーの人や、精神病の疾病名称である「性同一性障害」といった個人の状態につけられた新しい呼び名も含めて、男、女、半陰陽もすべてはあとからつけられた「ラベル」なのではないでしょうか。
     性だけではなく、人間につけられたさまざまなラベルの拡充と区別が昨今とても大事にされ、社会的な属性になり、階級形成の根拠に使われ、個人のアイデンティティの一部にも強く用いられています。ただの自分がただ存在することにではなく、ラベルこそが自分を証明するものになっています。
     性は目や心臓のように自分の体の一部であり、各人の顔が異なるようにたとえば外性器の形も寸部たがわない同一のものはなく、全員を並べてみればまったく個人的で微妙に多彩なありようの連続性です。たったふたつの形があるわけではありません。
     すなわち「性がある」という概念と「その性には男と女がある」という二元的な上位カテゴリー(ラベル)自体が、決して普遍的な事実ではないことに強く留意が必要です。
     性は、人種や民族などとともに人間身体につけられた社会的属性のひとつであり、上位カテゴリーを作る一概念です。それらは「限りなく実体化した可変概念」と呼べるものです。
     現行の社会概念である「人間には性があり、性には男と女しかない」の傘下で生きると、男と女のラベル以外の個人的ということが、微妙に、そして程度によっては大きく逸脱を起こすべき「病理として囲い込まれ」ます。身も心も生き方までもが「医療化されてゆく」結果に導かれています。これは医療概念による人間身体と自尊感情の植民地化と言ってもかまわないと考えます。植民地化は、先進諸国の開発援助に含まれる医療援助によって、すでに地球のどの場所においても完了しているのではないでしょうか。今では西側医療規範が、人間とは何かを決める地上で唯一の権力になっています。
    例えば、ゲイの人やレズビアンの人たちが「人が人を好きになった」ということが、1975年には精神障害とされました。この米国精神学会の決定を受けてWHOが国際疾病分類には同性愛を精神障害と決め、同性愛は世界標準の疾病(病名)になりました。
    しかし人が人を好きになること自体がなぜ病気なのか? 考えると社会的規範に逸脱するからという理由しかありません。社会のレギュレーションの狭さの問題であり、病理の問題ではないことが指摘され、93年に米国精神医学会が「精神疾患の診断と統計のためのマニュアル第三版」(DSM-3)の精神障害リストから「いかなる理由をもっても」という強い一文を付け加えて疾病リストから同性愛を削除、同年にWHOが国際疾病分類から同性愛を削除される最近の経緯がありました。
    日本でも日本精神神経学会がWHOの基準変更を受けて、それまで精神障害とされた同性愛が疾病単位から削除されています。95年に日本精神神経学会はWHOの基準変更を受けて、同性愛を精神障害にみなさないと決定しました。
    またこの一連の流れを受けて人権の見直しも図られています。94年には欧州委員会が、同性愛の権利擁護を決定。同年には国連人権擁護委員会が、男性間の性交渉を違法とするオーストラリア・タスマニア州のソドミー法が国際人権規約に反すると裁定しました。96年には新生の南アフリカ共和国憲法に、性的指向による差別の禁止が法律に明文化されました。
    異性愛・同性愛・両性愛という分類が何であれ、人が人を好きになる『その人なりの状態』のひとつにすぎない。このことに対して『あれは正常、これは異常』としたのはジェンダーの社会規範です。自然はただ多様である、このひとことにつきるものだからです。
    性同一性障害とはなにか?
     最近、地方市議会の議員に性同一性障害(者)であることを公言した候補者が当選しました。公営ギャンブルの競艇の女性選手が「僕は制同一性障害と言う病気です」という宣言からはじまる記者会見を行い、男性選手として登録が更正されたニュースも記憶に新しいと思います。
     では日本国内のニュースでも好意的に標記が取り上げられている「性同一性障害(GID)」とはなんでしょうか。これは紛れもない疾病名であり、個人の多様な生き方(個性)のひとつを指すライフスタイルの名称ではありません。
     性同一性障害とは、トランスジェンダー、トランスセクシュアルなありようの人を医学的変数(視点)から見て、その人固体に問題がある(この場合ジェンダーアイデンティティの障害。身体は健常常な男性または女性で、精神に障害がある)疾病(病気)として定義したものです。
     この定義は80年の米国精神医学会マニュアル(DMS-3)を皮切りにして、75年以降15年ぶりの改定で疾病項目も2倍以上に増えた1990年の第10回WHO国際疾病分類(IDC-10)で精神疾病単位として記載され、日本では95年1月に総務庁が告示、正式に精神疾病として医療行為(身体外観を性アイデンティティに合わせ、違和感を緩和する)の対象となりました。
    GIDは、自分のことを男または女だと思うジェンダー・アイデンティティと身体の生物学的性が合わず、不一致が元になった葛藤が精神に起きている(障害)状態とされています。
    ここで注意が必要なのは、男または女のジェンダー・アイデンティティが人にはあるとされていることです。それを『心の性別』と呼ぶことで、当事者も説明の煩わしさから解放され、一般の人にもわかりやすいものになりました。
     しかし、戦後アメリカで創出されたこの「ジェンダー・アイデンティティ」という用語は、概念であり実体ではありません。「性別に二種類存在している心」という用件を付け加えることで、過去の時代の諸文化には前例がないくらい脅迫的な概念に「性の二元性」が強化されてしまう結果になりました。自然のありようである多様さとは逆の、二元管理の徹底化に皮肉にも寄与してしまいました。
     もとより『体の性別』があるという了解が社会全員にあり、『体の性別と心の性別が違っても、それが病気ならしかたがないだろう』、精神障害を持った弱者なのだから、という理解や共感が得らました。以前は心の方を体に合わせる精神科治療が行われましたが、今では障害解消の医療目的で体の方を心に合わせる外科手術が求められるようになっています。
    日本での近況は、前述した総務庁の告示を受けて翌96年7月に埼玉医科大学倫理委員
    会が「性転換手術」を認める答申を発表、8月には日本最初の当事者自助グループの大会が東京で開かれました。97年には日本精神医学会の「性同一性障害に関する特別委員会」が答申と提言を発表し、98年10月に同大学で国内初の『正式な』手術が一例(女性から男性)行われています。99年には男性から女性への『正式な』手術が行われました。
    個人の生き方やありようを安易に疾病名へ置き換えてしまう日本
     それと符丁をあわせるかのように、以前の新聞表記ではトランスジェンダーという言葉が使われていましたが、現在では性同一性障害という疾病名称自体が個人の生き方そのものをさすような標記として使われています。
     テレビニュースをはじめ新聞雑誌などのメディアで一般的に使われるようになり、すっかり定着してしまいました。
     日本は、「あいつは会社のがんだ」「あれはエイズのようなものだ」など、疾病単位の医療言語を状態に使うことに対してセンシティブな感覚を持っていません。医療規範の用語が使われると、それがその人の状態そのものを「正確に」指していると思いがちです。
    しかし人間すべての多様な身体が二つの性別(セックス)『男性と女性』にはっきり分けられるという定義が生物の事実ではありません。
    男女、オスメスという区別が、性別二分の社会規範の反映だと思われるのは、医学の疾患症例ではセックスとジェンダーが必ずしも一致しない場合があり、「男らしさ、女らしさ」を含んだ性別役割のほとんどが生物学的な必然ではないことからも容易に理解されるでしょう。
    先の心に二つの性別があるという定義も、ジェンダー性二分の社会規範の指標を用いた限りのもので、科学的根拠ではないように思われます。男や女の身体があり、男や女の心があるという区分それ自体が社会通念であるとも考えられます。
    性は生物学的にみると連続する多様な個体、社会規範からみると不連続の2種類の個体
     また人間には男と女があるとされる根拠、生物として人間身体の実体を見てみるとどうなるでしょうか。ことはまったくあべこべです。
     人間の原型・胎児には当初性別がなく、全員同じひとつの性腺からの発生であり、常識とはまったく逆に、人間にはそもそも性別がありません。
     このため、あまりに形が違うと認識され、性別の根拠と一般的には指標に使われる外性器の二形性も、生物学の観点からすると事実無根の誤解以外のなにものでもありません。
     陰核と陰茎は同じ器官の発達程度差であり、大陰唇と陰膿も同様におなじ器官...

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