科学におけるコミュニケーション--印刷革命からコンピュータ革命へ
科学革命と印刷革命
コペルニクスの場合
すでに死の床についていたコペルニクスのもとに、地動説(太陽中心説)を体系的・数学的に論述した書物、すなわち、十六-七世紀の「科学革命」The Scientific Revolutionを代表する書物『天球の回転について』が届けられた、というエピソードが伝えられている--「もう幾日間も記憶も気力もなくしたまま過ごしてきて、彼は自分が死ぬ日になって、最後の息の下でやっとできあがった自著を見たのでした」(1)。一五四三年のことであった。死の間際であれ、コペルニクスは自らのライフワークが立派な書物となったことを見て心から満足したであろう。
コペルニクスがそうしたように、研究の結果を書物にまとめ出版するということが可能になったのは、もちろん、一七世紀の哲学者F・ベーコンが火薬、羅針盤とともに三大発明の一つに挙げた印刷術の発明のおかげであった。よく知られているように、活版印刷術は、一五世紀半ば、マインツでJ・グーテンベルクによって実用化された(2)。
活版印刷術の登場とその普及は、ヨーロッパ社会とその文化に多大の影響を及ぼした。特に、近代科学の成立=科学革命に果たした「印刷革命」The Printing Revolutionの役割は計り知れないものがある。
印刷術は、研究成果を書物として刊行するのに役立っただけではない。研究のプロセス、研究の仕方そのものを能率的にし、知識の蓄積を可能にしたのである。実際、『天球の回転について』に集大成される天文学の研究をコペルニクスに可能にしたのも、印刷術の普及、書物の出版のおかげであった。すなわち、
コペルニクスの誕生する少し前から、図書の生産方式に現実に起こった革命が、天文学者の利用しうる学術書や数学諸表に 影響を及ぼし始めていた。たとえば、一四八○年代にクラクフ大学の学生だった青年コペルニクスにとっては、おそらくプトレマイオスの『アルマゲスト』を一目でも見ることは--たとえ誤記の多い中世ラテン語写本であれ--むずかしかっただろう。しかし、彼は亡くなるまでに三種類の刊本を手にしている(3)。
コペルニクス自身も、その著書の序文で、
私は入手しうる限りすべての哲学者たちの書物を読み返してみようという仕事に着手しました。そしてまず初めにキケロにおいて、ニケタスが大地は動くと考えていた事を私は見出しました。その後、プルタルコスにおいても、幾人かの他の人々が同じ見解であったことを私は発見しました(4)。
と記している。すなわち、コペルニクスはギリシア時代の古典の信頼できるテキストの徹底した研究を通じて、自らの天文学研究を展開していくことができたのである。コペルニクスは印刷革命の時代を生き、その恩恵を存分に受けたことによって科学革命のチャンピオンの一人となることができたといっていいだろう。
印刷革命のインパクト
コペルニクスばかりではない、肉眼による天体観測としては最も正確な観測記録を残したティコ・ブラーエも、
印刷術の新しい力を最大限に利用した最初の周到な観測家だった。印刷術のおかげで天文学者は過去の記録類の矛盾を発見したり、各恒星の位置をより正確に割り出し恒星記録に収録したり、各地に観測協力者を募ったり、最新の観測結果を永久に残る形にとどめ、再版時に必要な改訂を加える、といったことができるようになったのである(5)。
すなわち、印刷革命は、面倒な書写や暗記から科学者(自然哲学
科学におけるコミュニケーション--印刷革命からコンピュータ革命へ
科学革命と印刷革命
コペルニクスの場合
すでに死の床についていたコペルニクスのもとに、地動説(太陽中心説)を体系的・数学的に論述した書物、すなわち、十六-七世紀の「科学革命」The Scientific Revolutionを代表する書物『天球の回転について』が届けられた、というエピソードが伝えられている--「もう幾日間も記憶も気力もなくしたまま過ごしてきて、彼は自分が死ぬ日になって、最後の息の下でやっとできあがった自著を見たのでした」(1)。一五四三年のことであった。死の間際であれ、コペルニクスは自らのライフワークが立派な書物となったことを見て心から満足したであろう。
コペルニクスがそうしたように、研究の結果を書物にまとめ出版するということが可能になったのは、もちろん、一七世紀の哲学者F・ベーコンが火薬、羅針盤とともに三大発明の一つに挙げた印刷術の発明のおかげであった。よく知られているように、活版印刷術は、一五世紀半ば、マインツでJ・グーテンベルクによって実用化された(2)。
活版印刷術の登場とその普及は、ヨーロッパ社会とその文化に多大の影響を及ぼした。特に、近代科学の成立=科学革命に果たした「印刷革命」The Printing Revolutionの役割は計り知れないものがある。
印刷術は、研究成果を書物として刊行するのに役立っただけではない。研究のプロセス、研究の仕方そのものを能率的にし、知識の蓄積を可能にしたのである。実際、『天球の回転について』に集大成される天文学の研究をコペルニクスに可能にしたのも、印刷術の普及、書物の出版のおかげであった。すなわち、
コペルニクスの誕生する少し前から、図書の生産方式に現実に起こった革命が、天文学者の利用しうる学術書や数学諸表に 影響を及ぼし始めていた。たとえば、一四八○年代にクラクフ大学の学生だった青年コペルニクスにとっては、おそらくプトレマイオスの『アルマゲスト』を一目でも見ることは--たとえ誤記の多い中世ラテン語写本であれ--むずかしかっただろう。しかし、彼は亡くなるまでに三種類の刊本を手にしている(3)。
コペルニクス自身も、その著書の序文で、
私は入手しうる限りすべての哲学者たちの書物を読み返してみようという仕事に着手しました。そしてまず初めにキケロにおいて、ニケタスが大地は動くと考えていた事を私は見出しました。その後、プルタルコスにおいても、幾人かの他の人々が同じ見解であったことを私は発見しました(4)。
と記している。すなわち、コペルニクスはギリシア時代の古典の信頼できるテキストの徹底した研究を通じて、自らの天文学研究を展開していくことができたのである。コペルニクスは印刷革命の時代を生き、その恩恵を存分に受けたことによって科学革命のチャンピオンの一人となることができたといっていいだろう。
印刷革命のインパクト
コペルニクスばかりではない、肉眼による天体観測としては最も正確な観測記録を残したティコ・ブラーエも、
印刷術の新しい力を最大限に利用した最初の周到な観測家だった。印刷術のおかげで天文学者は過去の記録類の矛盾を発見したり、各恒星の位置をより正確に割り出し恒星記録に収録したり、各地に観測協力者を募ったり、最新の観測結果を永久に残る形にとどめ、再版時に必要な改訂を加える、といったことができるようになったのである(5)。
すなわち、印刷革命は、面倒な書写や暗記から科学者(自然哲学者)たちを解放しただけでなく、彼らの間に信頼できるコミュニケーション・ネットワークを形成し、精選された知識や情報を蓄積することを可能にしたのである。
印刷術・出版の普及が学問や知識の発達を促す、という事情は、出版に対する規制が学問や知識の発達を阻害するということからもみてとれる。例えば、一六一六年のコペルニクス説の禁止令や一六三三年のガリレオ裁判を機に、自然哲学的な著作に対する検閲や自己規制が強まったカトリック圏では、当然にも、自由な意見の表明とそれをめぐる討論が下火になった。一方、相対的に出版の自由が保たれていたプロテスタント圏では、活発な意見交換が科学革命を着実に進行させることとなったのである。ガリレオの主著『新科学論議』の原稿が、密かにイタリア持ち出されて、宗教的・思想的に比較的自由な国オランダで出版されたというエピソードは、この辺の事情を如実に物語っている(6)。
雑誌の誕生
書物(単行本)だけではなく、雑誌という新しいメディアが発明されたことも学者たちのコミュニケーション・ネットワークを効率的にし濃密なものした。一六六二年に設立されたロンドンのロイヤル・ソサエティ(王立協会)は、書記のH・オルデンバーグの提案を受けて、一六六五年五月六日、ソサエティの雑誌を創刊した。この雑誌の正式の名称『哲学紀要--世界の主要な地域における発明工夫に関する現在の状況、研究、努力を解説する』Philosophical Transactions: giving some Accompt of the present Undertakings, Studies, and Labours of the Ingenious in many considerable parts of the World.には、この雑誌の創刊を提案し、編集・発行の責任を負ったオルデンバーグの意図と意欲が明確に示されている。実際、この雑誌には、会員以外の科学者や外国人科学者も含めて多くの人々の研究が報告・掲載された。雑誌というメディアの登場は、大部な書物を執筆するために必要な長い時間、出版社との面倒な交渉と多額の出版費用の工面といった苦労から、科学者たちを解放し、迅速で安価な研究成果の公表・交換を可能にしたのであった(7)。
科学論争と先取権争い
印刷というメディアの登場は、科学者たちの間での活発な論議・論争を促した。同時に、「先取権」priorityという概念も生み出した。すなわち、単行本であれ雑誌論文であれ、科学者が自らの名前を冠してその研究成果(新しい知識、発見)を印刷・発表するということが普通になってくるにつれ、科学者は、自らが見出した新しい知識に対して、第一発見者としての権利=先取権を有する、という考えである。むしろ、科学者を研究に駆り立てるのは、単なる知的好奇心というよりも、先取権を目指してのライバルとの競争心である、という状況が生じてきたのである。科学史上、最も有名なニュートンとフックとの間の科学論争と先取権争いはその代表例である。
反射式望遠鏡の製作によってロイヤル・ソサエティの会員たちから注目されたニュートンは、一六七二年ソサエティの会員に選出された。その直後、ニュートンは「光と色についての新理論」"New Theory about Light and Colors"と題した論文を執筆した。この論文は『哲学紀要』第八○号に掲載された(図1参照)。出版文化の確立とともに、書名や論文名に「新」という形容詞を付けることで、著者たちは自らの発見の新しさないしは重要性を強調するようになるが、ニュートンも例外ではなかったわけである。
しかし、この論文に対しては、「ニュートンの議論は新しくはない」との批判が寄せられたのである。一六六二年というロイヤル・ソサエティの創立の早い時期から、実験主任curator of experimentとして中心メンバーの一人であり、しかも著書『ミクログラフィア』で光と色の本性について論じたことのある、フックからの批判であった。この論争は、フックが光の本性を波と考えていたのに対して、ニュートンは光を粒子と考えていたことから生じたものだった。二人の間には、望遠鏡をめぐって、ガリレオ以来の屈折式望遠鏡の工夫改良に重きをおくか(フック)、新しい反射式望遠鏡の可能性を追及するか(ニュートン)という対立もあった。この論争が、後の万有引力に関する逆自乗則をめぐる有名な先取権争いの下地となったことは言うまでもない(8)。
ともあれ、雑誌は最新の科学研究の成果を公表し、そうすることによって先取権を確保する手段としての役割を果たすとともに、さまざまな科学論争の場を提供することになったのである。また、論争が国境を越えて拡がった--『哲学紀要』における論争はイギリス人だけにとどまらなかった--ことは、雑誌が広く流通していたことを示しており、注目に値しよう。
表記言語と地理的分布
十七世紀を通じて、学術的な書物は、しばしばラテン語で書かれていた。あるいは、ニュートンがそうしたように、同一の著作をラテン語版と自国語版の両方で出版することによって、学術的な権威を維持しつつ、より多くの読者を獲得するという方策が採用された。十八世紀以降もこのような習慣はある程度存続した。
ラテン語の使用に代表される権威主義は長く続いたが、学会における討論や雑誌を通じての成果の発表といった新しいコミュニケーションの普及が、国語改良運動の一環として位置づけられる場合もあった。例えば、ロイヤル・ソサエティの創設後、それほど年数もたっていないのに、その歴史を書いて、ソサエティの正統性とともに革新的意義を訴えたT・スプラットは、次のように述べている。
文体の誇張や脱線を排するという決意を常にもち、多くの事柄について語る際もほとんど同じ語数で、素朴に簡潔な言い方をする。会員たちは、率直で包み隠さない自然な言い方につとめる--...