「水が人間の言葉を理解して形を変える」という内容の『水からの伝言』という本を道徳教育で用いた問題に対して、批判的に検討しました。
参考文献:弓山達也[2010]『宗教研究』84巻2号。
官製スピリチュアル教育の危うさ
官製スピリチュアリティとは、「文部科学行政によって喧伝された「目に見えないものを大事にする」教育」[弓山, 2010, p.350]と定義される。たとえば、中教審や全小中学生に配布された「心のノート」には、「大いなるものの息づかい」「不思議な摂理」「目に見えない神秘」「人間の力を超えたもの」などの表現が散見される[弓山, 2010, p.350]。ここからも分かる通り、官製スピリチュアル教育がかなり抽象的なものであることがわかるだろう。
抽象的であるがゆえに、教育現場で実践するさいには、具体化する必要がある。しかし、ここで問題が生じる。具体化する過程において、特定の宗教と結び付く可能性があるからである。「大いなるもの」を理解しようとするとき、結局、神といった概念を用いざるを得ないのではないだろうか。そのとき、神といった概念は、宗教色を帯びることは避けられない。
では、宗教色を帯びなければよいのかといえば、一概にいえない。たとえば、
江本勝による著作『水からの伝言』を道徳教育で用いたときに問題なったことがあった(“理系白書’07:第1部 科学と非科学”. 毎日新聞 (2007年2月7日). 2011年11月1日閲覧)。この『水からの伝言』によれば、水にありがとうというと良い形の結晶ができる。すなわち、水は人間の言葉を理解するというものである。一般常識に照らし、水が言葉を理解するというのは奇異に思える。がしかし、事実教育現場において、『水からの伝言』は用いられていたのである。 ここに官製スピリチュアル教育の危うさがあるのではないだろうか。
すなわち、抽象的な官製スピリチュアル教育を具体的な教育実践に落とし込む過程における宗教色をなくすことの困難さである。宗教色をなくそうと努力した結果のひとつが、『水からの伝言』なのではないか。いうまでもなく、宗教色をなくそうとした結果が、疑似科学への迎合では、教育上都合がよろしくない。しかし、官製スピリチュアリティの具体的な実践においては、この種の本末転倒は、往々にして起こり得るのではないだろうか。科学万能主義への批判がその一旦にある、官製スピリチュアリティであるがゆえに、疑似科学との親和性は高い。ゆえに、実は、科学教育と絡める点にその活路が開けるのではないか、と筆者は考える。
参考文献:弓山達也[2010]『宗教研究』84巻2号。