『人間の約束』レポート

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    資料紹介

    2006年に受講した講義「 人間の尊厳(高齢期の生き方) 」。
    その講義で課題として出されたのが、映画『人間の約束』の感想レポートでした。

    映画の中での家族のやり取りは、認知症の高齢者に対する本音や無理解を端的に浮かび上がらせています。

    資料の原本内容

    『人間の約束』レポート
    この作品で描かれている人間模様には、「認知症」という概念が広く浸透し、認知症のお年寄りに対する社会通念や制度などが十分整っているような現在の社会の中でも、人々が潜在的に抱えているお年寄りに対する深層心理のようなものが伺いしれるような言葉がよく見受けられる。たとえば、おじいちゃんが近所を徘徊しながらガラクタを集めるようになった姿を見た娘と母親が動転し、母親が息子におじいちゃんを連れ戻すように急かすシーンだ。普段からおじいちゃん、おばあちゃんの存在を疎ましく思うような言動をしていた息子は、めんどくさそうに母親の要求を断り、それに対し母親はさらに強く急かし、父親も何事かとやってくる。そのとき息子は、「ボケてしまった老人は人間ではない。そういう施設が必要なのだよ。」と苛立ち気味に言う。程度の差はあれ、多かれ少なかれ誰しもが老人に対し一度は抱く、「邪魔者」「疎ましい」というような認識や本心を象徴的に表した言葉だと私には感じられた。また、この言葉からは、邪魔な者(老人)は排除すべきであるという「姥捨て」という考えが頭によぎった。その息子の発言に対し、父親が「口に出してはいけないことがある。」とたしなめているが、いまいちこの発言は説得力に欠けるように思えた。父親が言わんとすることはつまり、「社会では口に出してはいいことと、いけないことがある」という真っ当な意見ではある。しかし、この発言からは結局のところ、父親自身も心の中では息子の発言を全否定しきれないということを暗に認めてしまっているようなニュアンスが感じられる。社会通念を盾にして父親は息子を叱ってはいるが、どうしても息子の発言に対する反論としては弱い、厳しく言えば反論になっていないように思えるのである。それは介護を妻にまかせっきりにしている父親だからこそ、なおさら説得力に欠け、真っ当な発言ではあるけれど、空虚に感じられるのかもしれない。では、このときの父親と同じような立場に立たされたとき、私にはどのような反論ができるのだろうかと考えてみると、正直なところ中々思いつかない。父親のように社会通念や根本的な倫理観を盾にすれば、それはもっともらしく聞こえるのかもしれない。しかし、それは息子の発言に正面から反論する言葉にはなり得ないのだと思う。それは、父親と息子のやりとりをその場で聞いていた母親が泣き崩れてしまっている場面からも読み取れる。

    社会通念や根本的な倫理観だけでは、納得できない人がいるという現実。それに対し、私たちはどうすればいいのか。もし仮に、私が介護施設などで従事している、もしくは家族に認知症の人がいて、その人の介護をしているというバックボーンがあれば、父親と同じような発言をしたとしても重みが変わってくるのかもしれない。当事者意識の近いところ、つまり認知症の老人と接する機会や、認知症というものに対する知識があるかないかで、認知症の老人に対する理解の度合いも大きく違ってくると思う。少子高齢化が進む現代において、高齢化とともに肉体的、精神的に人はどのように変わっていくのか、具体的には認知症などがどういうものかについて知ることが益々重要になってくると思われる。「生きていく」ということは、誰しもが老化し、認知症などになり得るということだ。避けられない事実だからこそ、私たちはそれに関することに目を逸らしがちである。知らないからこそ、必要以上に恐れてしまっているきらいがある。若い頃から老化や認知症などについて知っておくことは、老人に対する接し方や自分の人生設計を考える上でも欠かせないことだと思う。この作品は、私たちが遠ざけがちな「老化」や「死」という不可分な現実とそれに対する本音をありのまま描き、目の前の現実から目を逸らすことで生まれる歪みを淡々と問いかけてくるようである。この作品を見て私は、社会全体で見れば、私たちの老人に対する認識や理解がこの「人間の約束」が制作された頃とどれほど変わったのだろうか、さほど変わっていないのではないだろうかと考えさせられた。
    < 参考資料 >

    映画『人間の約束』 監督 / 吉田喜重 1986年公開

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