これらの弊害と歪みは、“首尾一貫した”合理性の信仰という点で過去のそれとは根本的に異質なものである。例えば、科学還元主義的な立場に立脚する原子核物理学や分子生物学が、技術・経済・産業・医療などの分野へ経済優先の視点だけで安易に応用されると、地球環境と人類社会は、地球の生命全体を脅かす“危機(時限爆弾)”を文明の奥深くに内在させることになる。それは人類のみならず地球上のすべての生命を抹殺してしまう可能性すらもっている。このため、適切な批判精神のリバイバルが求められ、“内部環境である人間精神のバランス回復”が人類共通の課題となっている。現代の「美学」には、このような意味での全く新しい役割が期待されていると思う。
今日、近代科学文明の頂点に立っているはずの我々は、“倫理観・正義感・寛容性・環境意識”など人間性の根本にかかわる課題、いわば人間存在の真実についての認識の欠如が、環境・社会・政治・経済などの未来に、一向に先が見定まらない“不安の影”を投げかけている。
だから、人間存在の根本にかかわる「美の存在」とそれを「評価する感性」を考察対象とする美学が、我々の未来に対して必ずしも無力だとは言い難いのではないか?これからの美学には何が出来るのか?を考える。
そもそも美学とは、鬼丸義弘著『字動画のロゴス』(系草書房)によると、子供の画の発達段階には“三つの画期”があるという。
第一期は“描かれたものが、大人の目に何を現しているのかわからない時期”、第二期は“描かれたものが何を現すかおおよそ大人の目にも分かるようになるが、その描き方が普通の大人の描き方と非常に違っている時期”、第三期は“ほぼ一般の大人が常識的にもっている普通の描き方かそれに近い仕方で描く時期”と言っている。この三つの画期には科学的・合理的・発達史観的な価値評価を当てはめることができないことである。
我々の美意識の原点とも言える、これら...