円明園とは北京郊外(西直門北西約10kmの海淀区東部)に造られた清の離宮のことです。付園の長春園と万春園と合わせて『円明三園』と称されています。1709年(康煕48年)に雍正帝が創建し、その後乾隆帝による増改修がなされ、1772年(乾隆37年)に完成しました。
雍正帝から乾隆帝、嘉慶帝、道光帝、咸豊帝にいたるまで、各皇帝は一年の大半を円明園で過ごし、臣下を集合して、命令を下していました。そのため、広い庭園には200以上もある宮殿、楼閣、亭が建てられ、内部には芸術品が陳列されていたそうです。
総面積は350万?と頤和園より広く、借景技法(他の園内の建物や自然を風景の一つとすること)を凝らした園内には全部で40景の風景があり、その一つ一つに四文字の名称をつけ、額に掲げていました。
しかし、1860年のアロー戦争で、英仏連合軍の略奪と放火により、円明園は廃墟と化しました。そして、その後、廃墟に残された大理石、石の彫刻などは管理の不備から盗まれたり、近隣の北京大学、中山公園などに運ばれ、現存しているのはヨーロッパ宮殿のわずかな柱や土台だけになっています。
円明園
― 円明園の歴史 ―
円明園とは北京郊外(西直門北西約10kmの海淀区東部)に造られた清の離宮のことです。付園の長春園と万春園と合わせて『円明三園』と称されています。1709年(康煕48年)に雍正帝が創建し、その後乾隆帝による増改修がなされ、1772年(乾隆37年)に完成しました。
雍正帝から乾隆帝、嘉慶帝、道光帝、咸豊帝にいたるまで、各皇帝は一年の大半を円明園で過ごし、臣下を集合して、命令を下していました。そのため、広い庭園には200以上もある宮殿、楼閣、亭が建てられ、内部には芸術品が陳列されていたそうです。
総面積は350万㎡と頤和園より広く、借景技法(他の園内の建物や自然を風景の一つとすること)を凝らした園内には全部で40景の風景があり、その一つ一つに四文字の名称をつけ、額に掲げていました。
しかし、1860年のアロー戦争で、英仏連合軍の略奪と放火により、円明園は廃墟と化しました。そして、その後、廃墟に残された大理石、石の彫刻などは管理の不備から盗まれたり、近隣の北京大学、中山公園などに運ばれ、現存しているのはヨー...