児童支援の歴史
わが国最初の児童救済は聖徳太子が設けた非田院で、孤児・捨て子の救済に当てたとされる。だが、実際にその萌芽を見ることができるのは、明治時代に入ってからであろう。1868年の「堕胎禁止令」、1871年の「棄児養育米給与方」や「三子出産の貧困者への養育料給与方」の制定に続き、1874には「恤救規則」が制定された。これらは児童養護というよりも貧民対策として打ち出されたものであり、さらに対象者を「無告の窮民」に制限したことで、病気や失業などの理由で責務を果たすことができない多くの弱者への課題は積み残したままとなった。対象とならなかった貧民の救済を実践していたのは、宗教団体やあるいは個人的資産を投じて社会事業に貢献する慈善事業家や篤志家たちであり、児童福祉の分野でもまた、慈善活動家による先駆的な活動がこの時期に始まっている。著名なものとしては児童福祉施設の分野で1887年に岡山孤児院(石井十次)、障害児施設としては1891年に滝之川学院(石井亮一)や1932年の光明学校(高木憲次)、保育の分野で1900年に二葉幼稚園(野口幽香)、現在の児童自立支援施設にあたる家庭学校は、1899年から留岡幸助によ...