宗教が悪であるということではなく、より洗練された民主主義は、宗教的な多様性をも緩やかに包含し得るのではないかということです。古代ギリシアのように宗教が民主主義に先んじるのではなく、民主主義が宗教に先んじれば多様性は保障されるのではないかと考えるわけです。もちろん、これは一面で宗教的な堕落を伴いますし、例えば原理主義は確実にそこから排除されるでしょう。しかし真に理性的な民主主義であれば、米国的な単独主義(アメリカ原理主義?)もまた、確実にそこからは排除されます。
さて、ここまで考えてきたことをまとめてみますと、「これまでのところ、単一の価値観による支配を回避し、多様な
価値観の調和を導ける道具として人類が発明し得た唯一のものは、民主主義ではないか」ということになるので
すが、でも、こう言い切ってしまうと私はどうしようもなく不安になります。反対材料は無限にありますし、僕が知ら
ないことや見落としていることも多過ぎます。何よりも私自身、日本という国家社会で育ってきて、そこから無意識
の拘束を受けているはずです。恐らく、否、確実に、僕がこの問題に答えようとするのは時期尚早なのだとは思
います。でも、民主主義と宗教、そして多様性について考えることは、私達にとってとても重要なことだと考えます。
国家には、多くの国民が存在しその中では画一化される機会が少なくありません。ですが、各個人には思想の自
由も身体の自由も保障されています。それすなわち「個人」が認められていると考えます。このような「個人」がト
ランスナショナルに動く事で、国民主権の原理や「外国人」などの定義も見つめなおす時がきているように思いま
す。
法哲学 中間レポート
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法哲学
中間レポート
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2
課題
「国家」とはなにか
¾ 私は、「国家とはなにか」という問いに対して、「世界の主要な国家に根ざしている民主主義と宗教」の観点から、
考えます。
世界の多様な価値観は、自由民主主義という単一のイデオロギー(それ自体、かなり曖昧なものですが)に飲
み込まれようとしているのではないかと思います。もとより、これはとても大きな問題意識ですので、僕がなにか
解答を与えられるような類いのものではありません。ですからここでは、単に僕が現在考うる全てのことを書いて
みたいと思います。
¾ 出発点として単一のイデオロギーが支配的になるということの意味を問うことから考えます。
もし、この世界に「真に客観的な真理」なるものが存在するとすれば、それに近づいていく限りにおいて単一のイ
デオロギーは正当化され得ます。(この場合、件の真理は必ずしも単数である必要はないと考えます。)しかし、
それが存在しないのであれば、多様性以外にこれに代わるものは無いということになります。従って、この世に
「絶対的な真理」が存在するか...