演出論レポート

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    「世界のクロサワ」と知られる黒沢明監督の『乱』。それはシェイクスピアの『リア王』が黒沢流に解釈され、映画というメディアを使って表現されたものだそうです。そこで今回レポートでは、『乱』と『リア王』を比較することによって見ることができる、共通点、相違点、そこから分かるシェイクスピアと黒澤明の考えの違いについて以下の通りに書いていこうと思います。
     ①『乱』と『リア王』のあらすじとその舞台
     ②作品の人物がもつ要素
     ③道化と狂阿彌

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    演出論レポート
    「世界のクロサワ」と知られる黒沢明監督の『乱』。それはシェイクスピアの『リア王』が黒沢流に解釈され、映画というメディアを使って表現されたものだそうです。そこで今回レポートでは、『乱』と『リア王』を比較することによって見ることができる、共通点、相違点、そこから分かるシェイクスピアと黒澤明の考えの違いについて以下の通りに書いていこうと思います。  ①『乱』と『リア王』のあらすじとその舞台  ②作品の人物がもつ要素  ③道化と狂阿彌 1、あらすじとその舞台  『乱』の舞台は16世紀日本の、ちょうど戦の動乱期であると考えられます。広大な領地を数々の戦で勝利し、得ていた一文字英虎は、自分に老いを感じ、三人の息子に領地、大殿の座を渡そうとするところから物語は始まります。  舞台については『リア王』では古代英国で、ヒデトラ同様リア王も広大な領地を持つブリテンの王でした。そして『乱』では「三人の息子」であったのに対して『リア王』では「三人の娘」になっています。  リア王は広大な土地をもち、絶対的な影響力をもつ王でもありましたが、彼は歳を取り、娘たちに自分の幸せを委ねようとしたのです。彼は、その土地を三等分し、娘たちに自分に対する愛情はどのくらいかを問い、その愛情と同等のものとして土地を分け与えようとします。「娘の父親に対する愛情」がこの『リア王』の作品の中で大きな柱となっています。こうしたリア王の行為が私たちにとってはありそうにないとしても、それは民間信仰に根ざした古い物語であって、すでに当然のものとして受け入れられていたので当時のエリザベス時代の観客にとっては誰もありそうにないという印象は受けなかったのです。  では、それと同じような要素をもつものは、『乱』(日本)では何になるでしょうか。それが、「親に対する忠」、「家督相続をめぐる権力」ではないのでしょうか。そしてそれを表現する最も適した舞台として「戦国の世」を選んだともいえます。なぜなら、日本人であってある程度歴史を学んでいればこの時代に子が親を殺す、弟が兄を殺すといった行為はたびたび何度もあった、という事実は頭のどこかで認識されているからです。そして黒沢明監督も、このような「親に対する忠」、「家督相続をめぐる権力」をもっとも表現しやすい戦国の世を舞台にしたのではないでしょうか。第一幕・第二場にリア王の臣下グロスターの言う「子は親にそむき、王は自然の正道からそれ、父は子をさいなむ」とは、まさに「戦国の世」であるといえます。それを考えれば『乱』では「三人の息子」となったことも日本の歴史的に自然なことでしょう。  また、『乱』では『リア王』同様に、英虎の気が狂って、荒野を彷徨うシーンがあります。これはなぜでしょうか。「荒野」・「草原」はヒデトラ(リア)の“無の状態”をあらわしているかもしれません。ヒデトラもリア王も実権を譲りながらも父の名と王の名において、今までどおりの権威を振りかざそうとしていました。その象徴が『乱』では家紋、家督を重んじるシンボルである馬印であり、『リア王』では「リア王の率いる騎士100人」だったのでしょう。英虎も息子たちに城を追われてもそれを決して手放そうとはせず、名誉と名目を保持しようとすることに必死であり、何もかもなくなる状態を恐れていました。それが、荒野、草原を歩く場面に表現されているといえるのではないでしょうか。 2,作品の人物の持つ要素  どちらの作品においても中心人物であるリア王と英虎の子どもたちは、この作品を構成していく大切な要素です。『乱』では長男と次男はとりわけ三男を疎ましく思っていなかったのですが、父親に対する愛情ゆえの態度を英虎に誤解されてしまい、親子の縁が断たれるというのは『リア王』とでも共通しています。ただ、国の分割に関しては長男に大部分を譲り、家督も譲ろうとするヒデトラの提案は実に日本的性質を帯びているといえます。そして、親子の縁を切られながらもただひたすら父親である英虎のために動いていた三男三郎は、『リア王』でいう、リアのために最後まで戦ったコーディリアの要素を強く持っていると考えられます。また、三男の三郎について行きながらも英虎に絶対の忠誠心をちかう平山丹後は『リア王』でいうケント、英虎の堕ちていく人生につきあうことになる一人の若い狂言師、狂阿彌は、物語の折々の場面で英虎に助言やののしりをすることから、『リア王』でいう道化と考えられるのではなでしょうか。  また、英虎の息子たちにそれぞれ妻がいるように、『リア王』でも娘たちにも夫がいます。長女ゴネリルにはオルバニー公、次女リーガンにはコーンウォール公、そして三女コーディリアにはフランス王がそれぞれ求婚し結婚していますが、夫たちが影で作品の中心的役割を果たしていることはもっともですが、それは『乱』ほど、要素は濃くありません。一方、『乱』では太郎の妻、楓の方が後半部分の影の中心的人物になっていて、彼女は太郎と次郎を操り、彼女にとって一族を滅ぼされた敵である一文字家を滅ぼそうと企んでいたのです。楓は太郎に英虎は権力を捨てるつもりはないことを示唆して英虎を城から追い出させ、太郎が次郎の側近の鉄に殺されれば、次郎の弱みを握って、次郎を骨抜きにし、彼に取り入り、三郎と英虎、そして末の方までも殺させようとします。  そんな彼女の存在自体は性格的にも日本的性質と『リア王』の西洋的要素、両方を持ちあわせているように思えます。彼女は一文字家に対して恨みを持ちいつか敵を取ってやりたいともくろんでいる、これは日本人にしてみれば自然な感情の流れであり、そのためには次郎をも誘惑する、ということも理解ができます。では、彼女は『リア王』の中ではどの位置をもつ人になるでしょう。長男の嫁なので長女の夫であるオルバニー公でしょうか。しかし、彼はとても友好的でかつ平和的な人物です。では、誰なのか?楓の方は『乱』において、『リア王』の中にある二つの役割を持っているのではないでしょうか。太郎の妻としていまだ権力を握る英虎を追いやったのはまさに長女のゴネリルの要素も含んでいるし、恨みからくる復讐を心に誓い一文字家を滅ぼそうとするのはグロスター伯の庶子であるエドマンドの要素も強く含んでいるといえます。リア王では、エドマンドは庶子であるがゆえの運命を嫌い、グロスター伯の嫡子、エドガーを憎み、巧みに人をだまし、自分は着々と身分を高めていくのです。となると、だまされていた次郎は、リア王でいうエドガー、またはグロスターということができます。私の考えでは、グロスターは、庶子、嫡子に対して、罪の意識を感じていたことから、太郎を殺してしまったこと、英虎を追い出してしまったことに対して罪の意識を感じていた次郎はグロスター的要素が強いと思います。ではエドガーは『乱』でいう誰なのか?無実にもかかわらず、その存在を疎ましがられ、森の廃屋にたたずんでいました鶴丸が、無実にもかかわらず、反逆者として扱われてしまったエドガーの役割をしているのではないでしょうか。そしてラストが、エドガーのセリフで終わるように、鶴丸をラストシーンに使うことによって、この二つの悲劇の語り手として『乱』という映画を締めたのではないか。 3、道化と狂阿彌  私が『乱』と『リア王』を比較して、双方ともに気になった存在が狂阿彌と道化の存在です。まず一つ目に気になったのが、言動の違いです。『リア王』の道化は、家来にもかかわらず、ズバズバと物事を言っているのに対して、『乱』では、少し家来としての色が強く、狂阿彌の言動には忠や礼のようなものが感じられます。二点目は、物語とのかかわり方です。『リア王』では、道化は物語に直接影響はなく、ちょくちょく出てきては、リア王に対してズバズバとものを行ったり、皮肉った歌を歌ったりする存在として描かれていますが、一方『乱』の狂阿彌は、風の中のひょうたんや狂った英虎と一緒にいるシーンでもわかるように、物語に直に関係していて、『リア王』の道化よりも、より人間味を持った人物として映し出されています。そして、『乱』では、狂阿彌は英虎が、胸をかきむしって死ぬ最後の最後まで登場するのですが、『リア王』の道化は、第三幕の六場の「それなら俺は、日が昇りきったら、寝かせて貰おう。」というセリフを最後に突然登場しなくなってしまう。  以上の三点から、私は『乱』の狂阿彌は、一人の家来、英虎とは外側にある別人物として映し出されているのに対して、『リア王』の道化は、リア王の心の内側に存在する真実を物語る分身(別人格)であると解釈できるのではないかと思います。ですから、第三幕の六場で突然登場しなくなったのは、リアと道化の一体化、つまりリアが真実を見つけた(悟った)ことから起こったことなのではないでしょうか。その証拠に第三幕の六場で、リアは間違いを認め、ゴネリルとリーガンの心の冷たさを指摘している。そうすれば、物語の折々で突如として現れ、家臣にも関わらず、あれだけののしりの言葉が許されたのも、つじつまがつきます。また、『リア王』の中の時代では王は哲学者とともに道化も仕えさせることができ、「お抱え道化」とは王に何を言っても許される天下御免の職業だったらしいが、日本にはそのような歴史的にみてもその道化と全く同じような要素を持つものないので、日本を舞台とする『乱』の狂阿彌の英虎に対する態度が、やや礼儀がかっているのは当然でもある。  そして『乱』では狂阿彌を一人の人物として描いた以上、途中で消えてしまうのはあまりに不自然である。そこで、黒沢明は、狂阿彌を、英虎の死に立ち合わせて、ラストシーンでありこの映画の...

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