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明治から大正へと移り変わると、大衆文化は芸術性や形式に重きを置いたものから、娯楽性・商業性を重んじるものへと構造的な変化があった。文学面にも同じような変化が見られ、大正末期には「大衆文学」という名が発生し、「純文学」と分類されるようになった。
明治の中期から大正にかけて、時代小説と家庭小説が大衆文学の主流となっていた。時代小説は、塚原渋柿園の「天草一揆」や宮崎三昧の「摂政関白」など、講釈・実録・歌舞伎の伝統を受け継ぎ、歴史上の英雄・豪傑を主人公にしたものが多かった。彼らは小説作者であると同時に、新聞記者でもあり、新聞や雑誌を舞台に活躍していた。
この時代小説に、明治二十年代から盛んになった速記講談を母胎に、書き講談という新しい流れが加わった。大阪の書き講談である『立川文庫』では、明治四十四年五月刊の「一休禅師」をはじめ、「水戸黄門」「真田幸村」等、大正十三年頃まで約二○○篇近くの出版があった。一方、東京では、大日本雄弁会講談社の『講談倶楽部』が早記講談を中心に編集し、好評を博していた。同誌はさらに浪花節の速記も読物として取り入れ始めた。この編集方針の変更が、天下の御記録語りの矜持と生活...