まず、福永武彦の『深淵』は様々な角度から読める小説ではないかと思う。例えば、「罪」とは何なのか、「聖」と「俗」とは、「飢」と「魂」は、などといったことが挙げられるのではないだろうか。私は今回この『深淵』を読むにあたって、一つの読み方の角度であると思われる「愛」という観点から読むことを試みた。そして、「この愛は悲劇だったのだろうか」ということを一つの大きな疑問として立てて考えてみようと思う。この際に、女と男両者にとって「悲劇」であったのかどうか、ということを念頭において考えることにした。
結論から言えば、この二人の「愛」は悲劇としか言いようのないものであることは確かである。そこでまず、それは一体どのような点で「悲劇」だったのかということを考えてみたい。私が読んだ『深淵』における「悲劇」は大きく二つのことに集約されると思われる。第一点目の「悲劇」は女が男に暴行され、地獄のような悲劇に追いやられたという事実である。女が童貞聖マリアの前で祈るように、この時点での女の犯した罪はいったい何であったのだろうか。第六誡では、姦淫の行いと全て邪淫に導く事柄とを禁じているが、女の意志が伴っていないうちであるため、この時点では女はある意味では「被害者」と言うことも可能である。この事実による女の苦しみは、以後のものとは全く性質を異にする苦しみであり、彼女の運命もこの時点では憐れむべきものになり得た。しかし、第二点目の「悲劇」として、暴行され、地獄のような運命を辿ることになってしまったのにも関わらず、女はこの男を愛して生きようと決心し、
まず、福永武彦の『深淵』は様々な角度から読める小説ではないかと思う。例えば、「罪」とは何なのか、「聖」と「俗」とは、「飢」と「魂」は、などといったことが挙げられるのではないだろうか。私は今回この『深淵』を読むにあたって、一つの読み方の角度であると思われる「愛」という観点から読むことを試みた。そして、「この愛は悲劇だったのだろうか」ということを一つの大きな疑問として立てて考えてみようと思う。この際に、女と男両者にとって「悲劇」であったのかどうか、ということを念頭において考えることにした。
結論から言えば、この二人の「愛」は悲劇としか言いようのないものであることは確かである。そこでまず、それは一体どのような点で「悲劇」だったのかということを考えてみたい。私が読んだ『深淵』における「悲劇」は大きく二つのことに集約されると思われる。第一点目の「悲劇」は女が男に暴行され、地獄のような悲劇に追いやられたという事実である。女が童貞聖マリアの前で祈るように、この時点での女の犯した罪はいったい何であったのだろうか。第六誡では、姦淫の行いと全て邪淫に導く事柄とを禁じているが、女の意志が伴っていないうちであ...