私たちは言語の中に生きる「主体」1)である。私は本稿において、この主体という構造を、ある切断面から注目したいと思う。フランスのマルクス主義理論家ルイ・アルチュセールは主体という抽象的概念について以下のように説明している。
“人は文化の中で問いかけられ、主体として呼び掛けられ、何らかの位置・役割を占める者として呼びかけられて「主体」にされる”2)。
何らかのかたちで主体であるというのは、さまざまな心理・社会的、性的、言語的な制度に従属することを伴い、主体は自由に選択する行為体3)ではありえない。不自由な主体として物語することは、顕在的な制度のみならず、言説によって構築され続ける見えない権力にも従属することを免れ得ないのだ。しかし言説実践をするにおいて意図的にも無意図にも規範からの逸脱性を帯びるとき、「私」は主体を変革することができるのではなかろうか。人は生産された主体の中で抑圧的に言説行為を続けざるを得ないのではないかと虚無的4)な感覚を抱いて生きることは、ある意味容易いことだ。しかし、そういった主体の従属性ばかりに捉われることなく、積極的に逸脱し変革し続ける主体5)として、私たちは語らなければならないと思う。
それでは主体をいかに語るのか。議論の進行役として、主体を身体と関連させて論じるヘーゲルとフーコーの理論を読んでみる。ヘーゲルの枠組みにおいて主体は、その身体から自分を切り離しながら、切り離す行動を維持するために身体を必要とする。抑制されるべき身体あるいは身体的経験は法による検閲の下に置かれるが、逆に今度は弁証法的逆転として法を支える情動としてそれらがたち現れる。すなわち法が存続し機能するために、整列させられ抑制される身体が前提と見做されるのである。
2003年度卒業論文
性的主体の再構築-共同体における自己形成
-抑圧からの解放として対象化される「主体/共同体」概念を通過した後の私
<目次>
プロローグ 主体という墓標からの出発・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1 異性愛秩序の中における同性愛-主体の生成とフェミニズムを経験して
1-1 フーコーの『性の歴史』概観・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1-1-1 19世紀における性科学の発達-言説としての科学
1-2-2 禁忌としての「同性愛」から同一的存在としての「同性愛者」へ
1-2 「セックス/ジェンダー」という二項的概念からの脱却・・・・・・・・・
1-2-1 バトラーという<女>
1-2-2 フェミニズムにおける<女>という本質
1-2-3 本質としてのセックス観
1-2-4 セックスの脱本質化
1-3 バトラーによる「行為体」からの抵抗・・・・・・・・・・・・・・・・・
1-3-1 行為遂行的なジェンダー
1-3-2 主体から行為体へ
1-3-3 行為体への理論的対応
1-4 「ポスト行為体」的転回・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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