お弁当
古墳時代(大和時代)
(こふん)
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安土桃山時代(あずちももやま)
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江戸時代(えど)
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明治時代(めいじ)
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糒(ほしいい)/干粮,晒干的米饭。
非常食や保存食としても用いられました。
戦国時代(せんごく)
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【西元367—592年】
【西元1477 —1575年】
【西元1576 —1600年】
【西元1603—1867年】
【西元1868—1912年】
戦場で戦う武士たちの貴重な食料でした。
入れ物の中に詰めるという形で「お弁当」 が見られました。お弁当箱でした。
「幕の内弁当(まくのうちべんと う)」が登場でした。
「駅弁」が始まりました。
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今
用竹子和柳条编的盒饭容器
用弯曲的细木条制成的容器
半月形饭盒
铝饭盒
松花堂饭盒
“幕の内”とは、芝居の幕と幕の間のことを指し、江戸時代に、その“幕の内”に食べられたお弁当が「幕の内弁当」の由来になったと言われています。
短時間で食べなければいけなかったため、食べやすい小さな俵型のおむすびなどが好んで使われていました。
ただ、入れるおかずなどに決まりはなく、現在では、玉子焼きや焼き魚、煮ものなど、バラエティー豊かなおかずが入ったお弁当を「幕の内弁当」と呼んでいます。
白飯と副食という組み合わせの、単なるおにぎりなどと比べると手のこんだ弁当が「幕の内弁当」と呼ばれるようになったのは、江戸時代中期とされている。
この頃、料亭などの原型が成立し弁当を製造販売するようになった。それらは芝居などの観客にも向けられ、芝居茶屋などと呼ばれる観客を接待する店舗にも提供された。それらの弁当は、芝居の幕間(まくあい)・幕の内に観客が食べるものなので、いつしか「幕の内弁当」と呼ばれるようになったとされる。これ以外にも、「幕の内側で役者が食べるから」「相撲取りの小結が幕の内力士であることから“小さなおむすび”の入っている弁当を幕の内弁当と呼ぶようになった」などの説も存在する。平行して相撲の観客に対しても相撲茶屋が同様の弁当を供し、そこから幕内力士のように相撲の世界にも幕の内という言葉が持ち込まれたという説もあるが、こちらにも異論がある。容器は、現在のものに類似した使い捨てのできる経木の折詰もあったが、重箱(じゅうばこ)などで供されることが多かった。
明治以降になってからは、幕の内弁当は駅弁の様式のひとつとして広まった。この駅弁としての弁当は、容器の回収ができないことから、使い捨ての経木の折詰に盛るという方法が一気に広まったとされる。ただし、幕の内弁当が弁当の典型的・代表的な存在であったことから、必ずしも「幕の内弁当」で呼ばれるとは限らず、単に「弁当」「御弁当」などと呼ばれることも多かった。駅弁は、20世紀末期から地方色が強いもの、特定の食材を重視したものなどへの傾斜を深めたが、幕の内も依然根強い人気がある。コンビニエンスストアなどでも多様な弁当が売られるようになったが、その中でも幕の内弁当は一定の勢力を維持している。幕の内弁当は、弁当界の本流として、現在も生き続けている。
重箱(じゅうばこ)とは二重から五重に積み重ねられた、料理を入れる箱である。四季を表す四重が正式とされる。4段目は四の字忌避で「与の重」と呼ぶ。
形状は四角が一般的であるが円形や六角形、八角形のものもある。今日では主に正月のおせち料理、花見や運動会などの弁当、また鰻重の容器に使われる。
種類 について、木製の物や漆器、合成樹脂などの素材で作られることが多い。なかには紙製のものや、陶磁器で作られたものなどもある。美術品としては尾形光琳の「蒔絵梅椿若松図重箱(まきえうめつばきわかまつずじゅうばこ)」などが有名 。
駅弁マーク
外枠(そとわく):弁当容器の経木(きょうぎ)をイメージ。
枠の中の十字:弁当の仕切(しきり)で和を象徴 。
赤丸 :日の丸弁当と人々の交流の暖かさ 。
駅弁の字体 :「幕の内弁当」の名前の由来が歌舞伎にあることから勘亭流(かんていりゅう)(中村座の岡崎勘亭が創始者)の字体を使用 。
ローマ字 :日本の食文化「駅弁」を国際的に認知させることの願いを込めて。
☆ 明治の時代より鉄道の旅の友として多くのお客様にご利用され、親しまれてきた「駅弁」を新しい歴史の中でこれからも末永くご愛顧されるう願うとともに私たち駅弁屋が心新たに「駅弁」を見つめ直すことを念じ、平成5年に「駅弁の日」と定めました。
☆ 弁当の「弁」の文字が4と十の組み合わせでできていて、「当」は(とう)になることから4月10日になりました。