コリアンの事例から眺める葛藤とつながりhp

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    コリアンの事例から眺める葛藤とつながり
    ~「在日コリアン」・「中国朝鮮族」の「国籍」「民族」「個人」~
    「国籍」「民族」は「個人」にとってどのような意味をもちうるのか。多種多様であるはずの「個人」が、「国籍」「民族」という制度・概念によって一元化され、排除されてきた歴史的過程と現在。また、それによる「個人」の葛藤。「国籍」「民族」「個人」のズレから生じる葛藤がどのようなものであるのか、「在日コリアン」の人たちと「中国朝鮮族」の人たちを例に、その歴史的背景・共通点・相違点を報告する。また、一方で、「国籍」や「民族」をきっかけとしてつながっていこうとするこころみが、排他性をもつのではなく、さまざまな人々と共存をするための土壌を広げていく可能性を含んでいることも併せて報告したい。
     
    1.「私」は「私」、「私」と「あなた」の関係
     ・「私はだれでしょう」1
    沢知恵『Who am I?』(コスモスレコーズ.2000)
     ・「俺は何人だ!?俺は何人だ!?何もんだよ!?」2
    『GO』(金城一紀原作.行定勲監督.窪塚洋介主演.東映.2002)のセリフからの抜粋。
    しかし、「私は私」と「私とあなた」の...

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