コリアンの事例から眺める葛藤とつながりhp

閲覧数2,038
ダウンロード数2
履歴確認

    • ページ数 : 10ページ
    • 会員1,100円 | 非会員1,320円

    資料紹介

    タグ

    資料の原本内容 ( この資料を購入すると、テキストデータがみえます。 )

    コリアンの事例から眺める葛藤とつながり
    ~「在日コリアン」・「中国朝鮮族」の「国籍」「民族」「個人」~
    「国籍」「民族」は「個人」にとってどのような意味をもちうるのか。多種多様であるはずの「個人」が、「国籍」「民族」という制度・概念によって一元化され、排除されてきた歴史的過程と現在。また、それによる「個人」の葛藤。「国籍」「民族」「個人」のズレから生じる葛藤がどのようなものであるのか、「在日コリアン」の人たちと「中国朝鮮族」の人たちを例に、その歴史的背景・共通点・相違点を報告する。また、一方で、「国籍」や「民族」をきっかけとしてつながっていこうとするこころみが、排他性をもつのではなく、さまざまな人々と共存をするための土壌を広げていく可能性を含んでいることも併せて報告したい。
     
    1.「私」は「私」、「私」と「あなた」の関係
     ・「私はだれでしょう」1
    沢知恵『Who am I?』(コスモスレコーズ.2000)
     ・「俺は何人だ!?俺は何人だ!?何もんだよ!?」2
    『GO』(金城一紀原作.行定勲監督.窪塚洋介主演.東映.2002)のセリフからの抜粋。
    しかし、「私は私」と「私とあなた」の...

    コメント0件

    コメント追加

    コメントを書込むには会員登録するか、すでに会員の方はログインしてください。