東アジア諸民族の共通の始祖、つまりはイデオロギーである東明王の伝説は今日まで長く渡って語り継がれている。しかし、東アジア諸民族が共有する東明王伝説については従来の見解に反論をする研究者もいる。従来、扶余族と高句麗族は同属という認識があり、両族に同じく東明王伝説があるために、扶余と高句麗との民族的アイデンティティはますます強調されることとなった。
しかし、白鳥によると高句麗の朱蒙伝説は扶余の東明王伝説の改作にすぎず、その創作の目的は、高句麗が扶余族によって取り囲まれた長寿王の時代に、扶余の始祖を自国の始祖とすることによって扶余族に安堵を与えるためと推論している。
ただ、上記の当否を置いておいても東明王伝説が時代を経る中で手を加えられ、歴史的に形成されたものであるということだけは認めてもよい。
ここから高句麗の始祖に関する中国の認識をみていく。南朝の宋の時代、『後漢書』が編纂された424〜445年には高句麗と扶余の民族的同一性の認識は見られない。そして続く斉の時代、『宋書』が編まれるが高句麗殿はもっぱら高句麗との交渉関係の記事だけが掲載されており、扶余との系譜関係を論じた形跡はみられない。
高句麗の王権 始祖神話の創成と王権
東アジア諸民族の共通の始祖、つまりはイデオロギーである東明王の伝説は今日まで長く渡って語り継がれている。しかし、東アジア諸民族が共有する東明王伝説については従来の見解に反論をする研究者もいる。従来、扶余族と高句麗族は同属という認識があり、両族に同じく東明王伝説があるために、扶余と高句麗との民族的アイデンティティはますます強調されることとなった。
しかし、白鳥によると高句麗の朱蒙伝説は扶余の東明王伝説の改作にすぎず、その創作の目的は、高句麗が扶余族によって取り囲まれた長寿王の時代に、扶余の始祖を自国の始祖とすることによって扶余族に安堵を与えるためと推論している。
ただ、上記の当否を置いておいても東明王伝説が時代を経る中で手を加えられ、歴史的に形成されたものであるということだけは認めてもよい。
ここから高句麗の始祖に関する中国の認識をみていく。南朝の宋の時代、『後漢書』が編纂された424~445年には高句麗と扶余の民族的同一性の認識は見られない。そして続く斉の時代、『宋書』が編まれるが高句麗殿はもっぱら高句麗との交渉関係の記事だけが掲載されており...
しかし当方の期待レベルと作者の制作意図にずれがありました。
東アジア諸民族の始祖神話には共通の理解(卵生神話など)が存在しており
これを前提に高句麗と他民族を比較して欲しかった。