たとえ子供相手と言えども、殺し屋を雇って自衛する道を選ぶ中産階級の人々も実は、ブラジル社会が抱える矛盾の被害者に他ならない。ブラジルは上層と下層の収入格差が極端に開いている国の一つだが、中流に位置する人々は、上を見れば自分たちよりも裕福な暮らしをしている人々がいて、下を見れば暴力によって迫ってくる貧者たちがいる。その社会の矛盾のサンドイッチ構造に位置することも、ある意味では地獄を見ているのかもしれない。子供たちによって秩序が乱される人々と、同情のまなざししか投げかけない部外者との間には根本的な違いがある。その違いを埋めれる者は、現地で地道に活動を続けるNGOなどではあるのだろうが、多くの場合そこまでに至らない我々はどうすればいいのかが最大の謎だ。視点を子供たちに向けるのか、被害を被る市民に向けるのかでこの問題は感想は変わってくる。しかし、どっちが良いか悪いなどという感想はナンセンスでしかない。本質的、根本的な問題であるブラジルという国家が抱える経済的な問題を論じることを抜きにしては、あいもかわらず我々は部外として存在することになるだろう。貧困、同情のポルノに魅了されてしまうことはあまりにもおそまつだ。
ブラジルのストリートチルドレン問題
ビデオを見たときに、頭に思い浮かんだのは「シティ・オブ・ゴッド」という映画の名前だ。あの映画はブラジルのスラム街出身の子供たちが、やがて街を牛耳るギャングスターにのし上がっていく様子を数名の登場人物の視点で描いていたものだった。最後にはギャングスターに上り詰めた男は、まだまだあどけなさの残る子供たちに銃でいとも簡単に撃ち殺されて、今度はその子供たちが街を駆け巡るという終わりを迎えていた。
あの映画を見たときに何が一番衝撃的だったかというと、簡単に銃で人を殺す子供だった。銃で人が撃たれるシーンなんてものはいくらでも映画なりドラマであるが、短パンにタンクトップやTシャツ姿でサンダル履きの子供が、パンパンと人を撃つシーンがあまりにも不釣合いすぎて、なんだか気味の悪いものだったことを覚えている。正装をしていれば人殺しが正当化されるわけではないけれども、少なくとも貴重な人の命が、あんなかっこうをした子供に奪われてしまう描写に、あっけにとられてしまった。そこには道徳や、生と死の尊厳といったものが一切感じられず、なんだか今自分が生活している世界との隔絶さに気分が悪...