1、はじめに
日本語の漢字は中国から輸入したものであるが、日本語の文字の一部として機能している。日本語の漢字に対するいくつかの論があり、今回は近代日本で漢字がどのように位置づけられてきたかについて考えたいと思う。
2、背景
中国語が入って来て日本語もずいぶん便利になった。例えば「十一」を「とおあまりひとつ」と言っていたのが「ジュウイチ」と、以前の半分の音節で言えるようになったのである。しかし先人たちはそこで漢字を手放すことはせずに、むしろ日本語表記に適した使い方を模索し続け、文字の形に手を加えって、日本独自の文字を生むことすら行ってきたのであった。漢字と中国語(音読)が入って来た事により、ヤマトコトバは日本語になったと言えるだろう。漢字は数が多く、一般に形も複雑なので覚えるのがなかなか大変であるが、日本語を勉強する上で漢字の勉強を避けて通ることはできない。その原因で、漢字の廃止の問題が現れてきたのである。
3、国語改革
高島俊男は『漢字と日本人』に次のように述べている。
言語は、日本が西洋から学ばねばない事物の一つであるとともにあらゆる事物を学びとるための手段でもあるから、その改良、あるいは変革が課題として提起されたのも早い。すでに明治維新よりも前に幕臣前島密が漢字廃止を建言している。その主張はさまざまだが、大きく分ければ、二つに分けられる。一つは日本語を捨てようという主張であり、いま一つは、日本語は捨てないが漢字を捨てようという主張である。
一つ目の主張は送れた言語である日本語を全面的に捨て去り、英語を日本の国語にしようという主張である。英語採用論を主張した人は数多いが、その最も著名なのは、文部大臣であった森有礼である。森の考えはアメリカで刊行した英文著書『日本の教育』、特にその中の米国の学者ホイットニーに当てた手紙に見えている。そこで森は「わが国の最も教育ある人々および最も深く思索する人々は音標文字phonetic alphabet に対するあこがれを持ち、ヨーロッパ語のどれかを将来の日本語として採用であければ世界の先進国と足並をそろえて進んでゆくことは不可能だと考えている」と述べている。もって当時日本の知識界の雰囲気を知るに足る。これに対してホイットニーは、言語はその種族の魂と直接に結びついたものであるから、そう易い放棄するなどと言ってはならない、と森に忠告した。
また、徳川慶喜は慶応4年(1868)に、政権を天皇に替えた。新政府はその
漢字を廃止について考える
1、はじめに
日本語の漢字は中国から輸入したものであるが、日本語の文字の一部として機能している。日本語の漢字に対するいくつかの論があり、今回は近代日本で漢字がどのように位置づけられてきたかについて考えたいと思う。
2、背景
中国語が入って来て日本語もずいぶん便利になった。例えば「十一」を「とおあまりひとつ」と言っていたのが「ジュウイチ」と、以前の半分の音節で言えるようになったのである。しかし先人たちはそこで漢字を手放すことはせずに、むしろ日本語表記に適した使い方を模索し続け、文字の形に手を加えって、日本独自の文字を生むことすら行ってきたのであった。漢字と中国語(音読)が入って来た事により、ヤマトコトバは日本語になったと言えるだろう。漢字は数が多く、一般に形も複雑なので覚えるのがなかなか大変であるが、日本語を勉強する上で漢字の勉強を避けて通ることはできない。その原因で、漢字の廃止の問題が現れてきたのである。
3、国語改革
高島俊男は『漢字と日本人』に次のように述べている。
言語は、日本が西洋から学ばねばない事物の一つであるとともにあらゆる事物を学びとるための手段...