今回は、授業で取り扱った上記3作品における視点人物の変化と、登場人物の呼称における比較を行いたいと思う。ちなみに、参考とする本は『赤と黒』は新潮文庫版の小林正訳のもの、『ゴリオ爺さん』は新潮文庫版の平岡篤頼訳のもの、『ボヴァリー夫人』は岩波文庫の伊吹武彦訳のものである。
まず『赤と黒』であるが、この作品はおおむねは主人公であるジュリヤンを視点人物として物語が進行している。二度まで本気で、こんなりっぱな身なりの婦人が、自分を「あなた」と呼んでくれたのだ。(『赤と黒』P43より)この部分では、会話部分ではないのに自分という表現でジュリヤンを指している。これはジュリヤンを視点として物事を見て書いているからである。しかし大筋はジュリヤンを視点として展開していくがジュリヤンがその場に存在しないときには他者に視点が移動している。このことは、その人物の声に出さない心の中での葛藤を表現している部分(内的独白を用いている部分)で明確になる。例えば《ジュリヤンをどんなに傷つけたか、主人は分かっていない。でも、ジュリヤンが出て行くと思っている。あたしはどう考えたらいいのだろう?ああ!もう取り返しがつかない!》(P108より)この部分は明らかにレナール夫人が視点人物としてはたらいている。しかし、その次のページではすぐにジュリヤンに視点が移っている。《ここなら人間どもから害を加えられることもあるまい》(P109より)このように、『赤と黒』においては、内的独白を用いて視点人物を移動させ、読者に感情移入させやすい環境を作り出しているといえる。
『赤と黒』・『ゴリオ爺さん』・『ボヴァリー夫人』の3作品を比較する
今回は、授業で取り扱った上記3作品における視点人物の変化と、登場人物の呼称における比較を行いたいと思う。ちなみに、参考とする本は『赤と黒』は新潮文庫版の小林正訳のもの、『ゴリオ爺さん』は新潮文庫版の平岡篤頼訳のもの、『ボヴァリー夫人』は岩波文庫の伊吹武彦訳のものである。
まず『赤と黒』であるが、この作品はおおむねは主人公であるジュリヤンを視点人物として物語が進行している。二度まで本気で、こんなりっぱな身なりの婦人が、自分を「あなた」と呼んでくれたのだ。(『赤と黒』P43より)この部分では、会話部分ではないのに自分という表現でジュリヤンを指している。これはジュリヤンを視点として物事を見て書いているからである。しかし大筋はジュリヤンを視点として展開していくがジュリヤンがその場に存在しないときには他者に視点が移動している。このことは、その人物の声に出さない心の中での葛藤を表現している部分(内的独白を用いている部分)で明確になる。例えば《ジュリヤンをどんなに傷つけたか、主人は分かっていない。でも、ジュリヤンが出て行くと思っ...