「子どもの自己形成空間」とは、子どもがさまざまな他者・自然・事物と<かかわりあう>なかで徐々に形成されてくる意味空間であり、相互に交流しあう舞台である、と述べてあった。それは、子どもの日常的な活動、<かかわりあい>のなかで増殖されていく<関係的世界>を指し、また、対象を一方的に操作する空間でもない。そして、直接体験が成立する空間である。
かつての子どもたちはこうした「自己形成空間」そのものに働きかけることによって、自分なりの目的意識、一つのことをやり遂げる意志、物事に働きかける巧みさ、そして他者と協力しあうことの大切さなどを、知らず知らずのうちに身につけていた。しかしながら、高度経済成長以降、マス・メディアやメカニズムのために、人工化され、情報化された環境のもとで子どもの「自己形成空間」の衰弱化が顕著になってきた。そこで、子どもの世界に「自己形成空間」を再生させていく手だてとして「子どものなかに多様な経験をどう回復するか」、「子どもの生活・学習を心身一元的に、すなわち<活動する身体>として捉え直す必要がある」、「子どものなかに共同体あるいは共存的意識をどう育てていくか」という3つの重要な課題について述べられていた。
また教育は「自己形成空間」の存在を自明の前提として、その作用を意図的に補強することである。しかし、「自己形成空間」自体が崩壊の危機に瀕しているとういう現実を理解せずに、「いじめ」などの逸脱行動に対して、対症療法的に対応することは、事態をますます悪化させることであろう、と述べていたが、ここでは私なりの考えを提示してみたいと思う。
「子どもの自己形成空間」とは、子どもがさまざまな他者・自然・事物と<かかわりあう>なかで徐々に形成されてくる意味空間であり、相互に交流しあう舞台である、と述べてあった。それは、子どもの日常的な活動、<かかわりあい>のなかで増殖されていく<関係的世界>を指し、また、対象を一方的に操作する空間でもない。そして、直接体験が成立する空間である。
かつての子どもたちはこうした「自己形成空間」そのものに働きかけることによって、自分なりの目的意識、一つのことをやり遂げる意志、物事に働きかける巧みさ、そして他者と協力しあうことの大切さなどを、知らず知らずのうちに身につけていた。しかしながら、高度経済成長以降、マス・メディアやメカニズムのために、人工化され、情報化された環境のもとで子どもの「自己形成空間」の衰弱化が顕著になってきた。そこで、子どもの世界に「自己形成空間」を再生させていく手だてとして「子どものなかに多様な経験をどう回復するか」、「子どもの生活・学習を心身一元的に、すなわち<活動する身体>として捉え直す必要がある」、「子どものなかに共同体あるいは共存的意識をどう育てていくか」という3つの重...