「戦後の同和教育史を概括し、同和(人権)教育の意義と学校における同和(人権)教育実践の具体的なあり方を論述せよ」
①戦後の同和教育の流れ
戦後制定された日本国憲法は、「基本的人権の尊重」を三大原則の一つとし、第14条においては「すべての国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分または門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」と謳っている。このことは、政府による当然被差別部落の人々が差別されないという理念の明文化であり、戦後の民主化がもたらした大きな成果である。しかし、戦後の混乱が落ち着き、復興が進み始めたころ、同和地区は劣悪な環境のまま行政からも放置され、人々の差別意識も戦前と変わらないという状況が浮き彫りにされるのである。
1951年の京都市の同和地区児童・生徒の長欠・不就学数は市平均の10倍であり、部落解放委員会京都府連合会はオール・ロマンス差別事件糾弾要綱で行政の無関心を指摘し、「不就学児童を無くする対策を即時たてること」を同和教育行政における最重要課題と位置づけた。これを受けて京都市は同和教育費200万を1952年度予算として計上し、...