認識における合理性とその弊害
はじめに
認識の根拠とは一体何であろうか、また人間が認識の根拠を何に求めるか、何に比重をおくかによってどのような影響があるであろうか。本論では、まず認識の起源を思考にあるとする「合理論」と感覚による経験にあるとする「経験論」の二つに大別し、その主な考え方を紹介する。次いで合理論に焦点をあて、その亜種としての過剰な合理主義の弊害について現代の社会問題、日常の意識決定に引き付けて検討し、最後にこの合理主義に対し我々はどのようにつき合っていくことが必要なのか論じていく。
合理論と経験論
認識の根拠は大きく分けて「合理論」と「経験論」の二つに求められてきた。すなわち、「思考にもとづき理性によって成立する」(*1)と主張する説と「感覚にもとづき経験によって成り立つ」(*2)と主張する説である。
合理論は、プラトンのイデア論が源流とされるが、ここでは近世哲学の父といわれるデカルトの議論に則して合理論の特色をみていく。デカルトは感覚を介して受け取ったものが時として私たちを欺くことから、一度でも欺いた感覚は決して信頼しない、と考えた。すると、私が知覚するもの全...