現代は、否定的なものが輝いている時代といえる。真実は、虚偽を暴露しなければ生成しなくなり、善は悪と闘争しなければ実現されることはない。これは、肯定的なものは、否定的なものなくしては生成しないと言い換えることができる。すなわち、形而上学においては、否定的なものから目を背けることなく、それを内側から見ることによってのみ真理を認識することができるということである。このような形而上学は否定性の形而上学と呼ばれ、主としてドイツ観念論の中心であったフィヒテ、シェリング、ヘーゲルらの思索を土台としていた。この三者それぞれの営為は、自立した思索の世界を形成し、独自の展開を遂げていたため、一方で諸問題の探究を共有し、他方で強い自立性を持っていたといえる。
ドイツ観念論を理解する上での結節点は、フィヒテの「浄福な生への指教」、ヘーゲルの「精神現象学」、シェリングの「人間的自由の本質」の三つの書を関連づけていくことが必要となる。これらの著作を対照させて見ると、自己意識を単なる内面的で認識論的な反省作用として捉えるだけでなく、作用主体の存在にまで遡って把握しているという共通点が浮かび上がる。これら共通点を深めていき、その中で否定性の形而上学を構築するための土台が発見されるとしたら、そこには行為の問題が存在するはずである。そして、行為の問題を解明することで、行為に対する観想の優位という形而上学的理性の基本前提が変わることになるのである。観想は行為の完成であるといえ、したがって、すべての行為は観想を目指していることになり、行為なくしての観想は成立しないのである。
ドイツ観念論は、全体として哲学が学問であることを認めているが、これはカントによって学問としての形而上学の基礎づけが試みられたことによるものであった。
形而上学の現代的意義について述べる。
現代は、否定的なものが輝いている時代といえる。真実は、虚偽を暴露しなければ生成しなくなり、善は悪と闘争しなければ実現されることはない。これは、肯定的なものは、否定的なものなくしては生成しないと言い換えることができる。すなわち、形而上学においては、否定的なものから目を背けることなく、それを内側から見ることによってのみ真理を認識することができるということである。このような形而上学は否定性の形而上学と呼ばれ、主としてドイツ観念論の中心であったフィヒテ、シェリング、ヘーゲルらの思索を土台としていた。この三者それぞれの営為は、自立した思索の世界を形成し、独自の展開を遂げていたため、一方で諸問題の探究を共有し、他方で強い自立性を持っていたといえる。
ドイツ観念論を理解する上での結節点は、フィヒテの「浄福な生への指教」、ヘーゲルの「精神現象学」、シェリングの「人間的自由の本質」の三つの書を関連づけていくことが必要となる。これらの著作を対照させて見ると、自己意識を単なる内面的で認識論的な反省作用として捉えるだけでなく、作用主体の存在にまで遡って把握していると...