17世紀の前半のイギリスでは、金銀が外国に流出したため通貨が不足し、それが国内不況の原因であると考えられていた。金銀流出の原因として為替レートの過小と東インド会社を問題にしたマリーンズに対し、マンは外国為替が貿易差額を決定するのではなく、財に対する国際市場での需要と供給が貿易差額を決定すると反論し、当時の支配的資本の形態であった商人資本の立場を擁護した。そして、貿易差額を黒字にする方法として、外国品の消費の抑制、製造品の輸出税の軽減などの方策を示した。こうした認識は、国家主権を超越した経済法則の存在をマンが想定していたことを意味するものであった。初期重商主義は、貨幣を国富と考え、国内における貨幣を増大させることを政策目標としており、貨幣数量説の認識を示していた。
後期重商主義を代表するスチュアートの「経済学原理」は、後にスミスが「諸国民の富」において批判の対象としたものであり、「原理」の対象が本源的蓄積の途上にある経済であったのに対して、「諸国民の富」は、既に本源的蓄積が終了した段階を対象としていた。
フランス重農主義はフランス重商主義の批判として、古典派経済学はイギリス重商主義の批判として、それぞれ登場した。重商主義批判を行うためには、政府による保護・介入なしでも経済が自律的に動くことを示す必要があった。ケネーは、経済も自然の支配に服すべきであると主張し、そのためには為政者が自然の状態を知る必要があると考えたが、スミスは農業しか純生産物を生まないとするケネーの重農主義を批判した。ケネーの政策は、チュルゴーによって実行されたが、穀物の取引自由化は凶作に遭遇し、フランスの南部では暴動が発生したため、チュルゴーの失脚とともに重農主義の権威は失墜し、重農主義の改革は頓挫してしまった。
経済学の発生から古典派経済学の解体に至るまでについて述べる。
17世紀の前半のイギリスでは、金銀が外国に流出したため通貨が不足し、それが国内不況の原因であると考えられていた。金銀流出の原因として為替レートの過小と東インド会社を問題にしたマリーンズに対し、マンは外国為替が貿易差額を決定するのではなく、財に対する国際市場での需要と供給が貿易差額を決定すると反論し、当時の支配的資本の形態であった商人資本の立場を擁護した。そして、貿易差額を黒字にする方法として、外国品の消費の抑制、製造品の輸出税の軽減などの方策を示した。こうした認識は、国家主権を超越した経済法則の存在をマンが想定していたことを意味するものであった。初期重商主義は、貨幣を国富と考え、国内における貨幣を増大させることを政策目標としており、貨幣数量説の認識を示していた。
後期重商主義を代表するスチュアートの「経済学原理」は、後にスミスが「諸国民の富」において批判の対象としたものであり、「原理」の対象が本源的蓄積の途上にある経済であったのに対して、「諸国民の富」は、既に本源的蓄積が終了した段階を対象としていた。
フランス重農主義は...