【早稲田大学】saiteとpositionの視点から新宿駅を観る

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    資料紹介

    今回の私が対象とした地域は、「新宿駅周辺」である。この町は買い物するにも便利であるし、移動する場合においても鉄道各線が走っている。また鉄道だけでなく、高速バスの発着地の役目も果たしている。このように私に多くの人々に、利用されている「新宿駅周辺」が、どのようにその形を作っていったのか見ていこうと思う。
    「Position」の視点から
     新宿周辺が中心地となったのは、江戸幕府によって制定された甲州街道の宿場町「内藤新宿」の賑わいにさかのぼる。甲州街道は江戸を起点とする五街道(東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道)の一つで、経済上、軍事上、重要な交通路であった。距離は約56里、つまり約219kmであった。内藤新宿の成立は甲州街道最初の宿場・高井戸が日本橋から遠かったことに関係する。日本橋と高井戸の間は約16kmもあり、人馬には長かったために、中間地点の四谷に宿駅開設の願いが出されたのである。当時四谷付近の街道の両側は信州高遠の城主・内藤若狭守の下屋敷であった。その他の一部が公収されたので、「内藤新宿」という宿場名がついたのである。幅五間半(約10m)の街道と東西9町余(約982メートル)足らずの地に家作りがなされ、江戸側より下町・仲町・上町とする宿場町ができた。この場所は現在でいう新宿御苑北側の新宿1丁目から伊勢丹デパートの付近である。またこの内藤新宿は、東京西域の道路交通の大動脈、甲州街道と青梅街道の分岐点「追分」の地でもある。東京と八王子を結ぶ京王電車の起点もこの追分の地であった。
     交通の要地としての役割を持つ新宿を、電車を軸に見ていく。新宿駅は、1885年我が国初の私鉄・日本鉄道(現・JR山手線の一部)「品川」〜「赤羽」の開通時に誕生した。
     後に甲武鉄道が「新宿」〜「八王子」間に開通し、引き続き「飯田町」(後の飯田橋)に延伸後、1886年に国鉄化した。

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     今回の私が対象とした地域は、「新宿駅周辺」である。この町は買い物するにも便利であるし、移動する場合においても鉄道各線が走っている。また鉄道だけでなく、高速バスの発着地の役目も果たしている。このように私に多くの人々に、利用されている「新宿駅周辺」が、どのようにその形を作っていったのか見ていこうと思う。
    「Position」の視点から
     新宿周辺が中心地となったのは、江戸幕府によって制定された甲州街道の宿場町「内藤新宿」の賑わいにさかのぼる。甲州街道は江戸を起点とする五街道(東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道)の一つで、経済上、軍事上、重要な交通路であった。距離は約56里、つまり約219kmであった。内藤新宿の成立は甲州街道最初の宿場・高井戸が日本橋から遠かったことに関係する。日本橋と高井戸の間は約16kmもあり、人馬には長かったために、中間地点の四谷に宿駅開設の願いが出されたのである。当時四谷付近の街道の両側は信州高遠の城主・内藤若狭守の下屋敷であった。その他の一部が公収されたので、「内藤新宿」という宿場名がついたのである。幅五間半(約10m)の街道と東西9町余(約982メー...

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