天安門事件の背景と影響
07A2168032E 稲吉 亮
八九民主運動のあいだ中、はじめから終わりまで、この運動は二つの面の闘争いよって貫かれていた。一つの面は、群衆の愛国民主運動と李鵬一味との公開論争であり、もう一つの面は、党内改革勢力と李鵬一味との党内論争だった。この二面の論争は、相互に交錯し、互いに影響しあっていた。ハンストから戒厳令まで、戒厳令から虐殺まで、学生が撤退しようとしたとき、李鵬は矛盾を激化させる手段をとった。彼らの採用した方針は、「鎮圧を堅持し、圧力を増加し、学生を激怒させ、学生に退路を与えず、機を見て鎮圧し、後患を断つ」ことだった、といえるだろう。
1988年になると、中国の経済改革は停滞状態に陥り、政治改革もなかなか進行しなかった。そのため改革の不徹底が作り出した一連の社会問題、たとえば、インフレ、貧富の格差、特権、腐敗などが、民衆の不満を引き起こしていた。そんな中、保守派の巨頭、姚依林は改革のストップと計画経済を主張し、改革派の趙紫陽は、民主政治と市場経済を主張し、対立していた。
八九民主運動は、改革に意欲的だった胡耀邦元総書記の死をきっかけとして、民衆が長く...