この世のすべての出来事には原因がある。だからといって「われわれのなすことはすべて原因がある」ということと「われわれのすることはすべて決定されている」とが同じことになるだろうか。これら二つが同じだというのが運命論である。「されている」という表現は、われわれの意思に反して起こっているので、その結果起こってくることには無関係だ、という意味を含んでいる。そして、そのようにわれわれに起こってくる出来事を変える力は、われわれ人間にはない。人間の意志はこの世では無力であり、出来事の成り行きに差異を生じさせることができない。われわれの行動にかかわりなく、起こることは起きるしそれは運命であるというのである。つまり、われわれが未来のついて何をしようとしてもまったく関係ないということになる。科学は少なからずこうした運命論に人々をいざなうようにも思える。
「科学は、すべての出来事には原因がある」ということについてますます多くのことをわれわれに明瞭に示すことができるようになってきている。この科学の教えることは、自然の出来事についてだけではなく、人間の行動も含んでいる。また未来の出来事も、ますます多く予測可能になってきている。このまま進めば、自然的世界はもとより、われわれのするすべてが予測可能になるわけである。そうなれば、われわれのするあらゆる行動もすべて決められていることにはなりはしないであろうか。
科学は研究の指導原理として因果性の原理を持ち、あらゆる出来事は自然法則によって説明する。その成果は目覚しく現実にあった事象だけでなく、これから起こるであろう事象の予測すら可能にしている。自然現象についてのみでなく、人間の行動を含む出来事にも及んでいる。遺伝的体質環境条件行動の仕方についても、すでに多くのものが法則によって因果の説明がつくことを、われわれは知っている。
この世のすべての出来事には原因がある。だからといって「われわれのなすことはすべて原因がある」ということと「われわれのすることはすべて決定されている」とが同じことになるだろうか。これら二つが同じだというのが運命論である。「されている」という表現は、われわれの意思に反して起こっているので、その結果起こってくることには無関係だ、という意味を含んでいる。そして、そのようにわれわれに起こってくる出来事を変える力は、われわれ人間にはない。人間の意志はこの世では無力であり、出来事の成り行きに差異を生じさせることができない。われわれの行動にかかわりなく、起こることは起きるしそれは運命であるというのである。つまり、われわれが未来のついて何をしようとしてもまったく関係ないということになる。科学は少なからずこうした運命論に人々をいざなうようにも思える。
「科学は、すべての出来事には原因がある」ということについてますます多くのことをわれわれに明瞭に示すことができるようになってきている。この科学の教えることは、自然の出来事についてだけではなく、人間の行動も含んでいる。また未来の出来事も、ますます多く予測可能...