都市中間層を主たる担い手とするデモクラシー思想の浸透→教育・文化にも及ぶ臨時教育会議(1917〜19)における決定事項が具体化、実施される
【大正新教育運動】
ヘルバルト主義の形式化された教育、教師中心の教育方法を批判・克服し、児童中心の教育を主張
教育方法論を中心に、教育内容論には及ばず(→天皇制体制下の臣民の育成は前提)
新教育の広がり
1917(大正6)/4 澤柳政太郎、成城小学校を創設
教師5名、児童35名から出発、野口援太郎ら顧問
教科教授の始期をissueに → 尋常科1〜3年の修身科を廃止
1921(大正10)/8/1〜8 八大教育主張大会 in東京高等師範学校、大日本学術協会主催
「自学教育論」樋口長市(東京高師教授、50)
「自動教育論」河野清丸(日本女子大附小主事、48)
「自由教育論」手塚岸衛(千葉師範附小主事、48)
「一切衝動皆満足論」千葉命吉(広島師範附小主事、41)
「創造教育論」稲毛金七(雑誌『創造』主催者、34)
「動的教育論」及川平治(明石女子師範附小主事、46)
「全人教育論」小原国芳(成城小主事、37)
「文芸教育論」片上伸(早稲田大学教授、ロシア文学者、37)
全国から二千人を超える教員が集まる 自由教育ブーム
「八大教育主張」『新教育学大辞典』
1924(大正13)/4 野口援太郎ら、池袋児童の村小学校を創設(〜1936)
教育方法上の革新運動をおこすことを目的
学費年98円(月8円)
初年度約60人の児童、1学級20人程度
親の職業‐実業、会社員、官公吏がほとんど
「私立池袋児童の村小学校要覧」(梅根悟『資料日本教育実践史1』)
1929(昭和10) 富士小学校長上沼久之丞の調査
新教育の学校は全国で公私立、師範附属、合わせて55校
私立、師範附属にとどまらず、公立小学校にも浸透する
大正新教育運動の展開(1921~1930)
都市中間層を主たる担い手とするデモクラシー思想の浸透→教育・文化にも及ぶ
臨時教育会議(1917~19)における決定事項が具体化、実施される
【大正新教育運動】
ヘルバルト主義の形式化された教育、教師中心の教育方法を批判・克服し、児童中心の教育を主張
教育方法論を中心に、教育内容論には及ばず(→天皇制体制下の臣民の育成は前提)
新教育の広がり
1917(大正6)/4 澤柳政太郎、成城小学校を創設
教師5名、児童35名から出発、野口援太郎ら顧問
教科教授の始期をissueに → 尋常科1~3年の修身科を廃止
1921(大正10)/8/1~8 八大教育主張大会 in東京高等師範学校、大日本学術協会主催
「自学教育論」樋口長市(東京高師教授、50)
「自動教育論」河野清丸(日本女子大附小主事、48)
「自由教育論」手塚岸衛(千葉師範附小主事、48)
「一切衝動皆満足論」千葉命吉(広島師範附小主事、41)
「創造教育論」稲毛金七(雑誌『創造』主催者、34)
「動的教育論」及川平治(明石女子師範附小主事、46)
「全人教育論」小原国芳(成城小主事、37...