『弁論家について』の現代法律学への接合について
キケロは次のように述べている。「弁論家の活動と能力は5つの要素に分類される、つまり、まず、語るべきことを発見し、次に、そうしたものを単に規則どおりに並べるだけではなく、重要度に応じてある種の判断も的確に配置、配列し、ついで、言論によってそれに装いと飾りを凝らし、さらに、記憶によって固め、最後に威厳と優雅さをもって口演すること、の5要素である。」「本論に入る前に、はじめに聴衆の心をこちらに引きつけ、その行為を得るようにしなければならない。次いで、事案を陳述し、そのあと、争点を確定しなければならない。それから、われわれの主張を立証し、その後、相手方の反論に反駁し、最後に、われわれの有利となる点を拡充し、敷衍して語り、相手方の
キケロ『弁論家』
(Cic.de or.1.50)
その証拠に,例えば,犀利この上ないと評される例のクリューシッポスのように,ある種の哲学者たちは,同じ事柄を論じていながらその言論は貧弱であったし,しかも,彼らが他の学術に属するこの弁論の能力を獲得していなかったからといって,哲学の求める要件を満たさなかったということではけっしてなかったのである。
では,いま名を挙げた人々の言論の潤沢さ,豊富さと,弁論の与えるこの多彩さ,優雅さを用いない人々の言論の粗末さの違いはどこにあるのだろうか。あるいは,両者をどのように識別すればよいのだろうか。一つは間違いなく次の点である。つまり,言論の優れた人の示す固有の特徴は,その言論が,配列に遺漏なく,詩藻を凝らし,ある種の技巧をもって彫琢されたものである,という点である。しかし,そうした言論も,弁論家によって完全に認識され,理解された内容を伴っていなければ,当然,言論の名にすら値しないものとなるか,もしくは,万人に嘲弄され愚弄されるものとなるかである。
(Cic.de or.1.32)
というのも,互いに言葉を交わし,感じたこと,思ったことを言論によっ...