さて、政治の話が出たついでに、「社会」を意味するsocietyという英語の語源を考えてみると、これは、ラテン語で「親交、友愛、絆」を意味するsocietas(ソキエタース)からできた言葉で、さらに遡れば「仲間」、「友」を表すsocius(ソキウス)という語に由来する。また、このsociusという言葉自体「分かち合っている、結びつけられた」という意味をもつ形容詞でもある。ラテン語のsociusを語源とする英単語としては、他にassociation(協会)がある 。意外なところではsoccer(サッカー)もsociusと関連している。元はassociation footballと呼んでいたのを、短縮してsoccerと称するようになった、というのがその種明かしであるそうです。
ソクラテスは、「無知の知」という言葉で有名であるが、これはどういう意味だろうか。デルポイの神託で「ソクラテスより知恵のある人間はいない」というお告げを聞いた彼は、この神託の真実性を疑った。そこで自分よりも知恵を多くもっていそうな人物に、人生の意味や美の問題、究極の真理に関する疑問をぶつけた。その結果わかったことは、これらの人物は単に知ったかぶりをしているだけで、自分の無知にぜんぜん気づいていないということであった。つまり、無知を自覚した自分とそうでない連中の間には、じつに大きな違いがあることに気づいたのである。すなわち、「無知の知」は「無知の無知」にまさるという点で、ソクラテスは神託が正しかったことを確認した。
国家とは
コラムの「人が歴史から学ぶ最大の教訓は、人は決して歴史から学ばないということだ」この言葉に非常に感銘を受けた。確かに人は過去の戦争や民族紛争などといった戦いについて歴史から学んでいない。歴史をそれほど重要視していないのであろうか。疑問に思うところである。
さて、国家とは何を基準に国家というのかと問われても非常に難しいものである。国家という言葉で思い浮かぶのは国家権力という言葉である。例えば何か犯罪を犯し警察に捕まりそれ相当の罰を受けることを国家権力の世話になると言ったりする。これからも分かるように国家は権力を持ちそれを行使できるという存在であるということがいえる。私達が普段の生活をおくれるのも大きく言ってしまえば国家のおかげである。しかし毎日の中で国家というものを意識するということはまずないであろう。日本人はそれほどまでに国家に依存しておらず頼りきってもいないのだ。日本がひとつにまとまるということの例としてスポーツが挙げられる。「日本代表」という肩書きを背負った精鋭達が海外の国々と対戦する時、または中田やイチロー・新庄のように個人単位での海外で活躍している選手達を応援する時な...