読者として「たけくらべ」という作品を読むとき、そのイメージはすでにあらかた固定化されているように思われる。それは、菅原孝標女が源氏物語を読んだように、昭和の少女達が吉屋信子を読んだように、と言ってもいい。読む前からある種のイメージが先行し、そのフィルターを通して読まれる、と言えるのではないだろうか。
私などは、「たけくらべ」の原文に触れる前に、さまざまなメディアを通して二次的な「たけくらべ」に出会っている世代である。有名ないくつかの場面は原文で読むこともあったが、メディアのフィルターを通したそちらの方が「たけくらべ」の原体験になっているといっても過言ではない。そんな私の中にあった「たけくらべ」のイメージは、美登利と真如を巡る、思春期の淡い恋物語であり、そのなかで正太郎の存在はかなり希薄であったように思う。
しかし、改めて読み返してみると、もちろんのことながら、正太郎は作中にかなりの割合で登場する重要人物のひとりであり、ほとんどが美登利と対になるために登場するといってよい。さらに本文中の真如の描写に比べ、正太郎の闊達さ、かわいらしさの描写の多いこと、詳細であることに気付く。それでは、美登利をはじめ、我々をも含む好意の目を、正太郎ではなく真如に向けさせたものは何だったのか。それを明らかにするために、美登利と真如、また、美登利と正太郎の関係をそれぞれ見ていきたい。
まず美登利と真如との場合を見てみる。過去のいきさつを述べる、運動会の場面と花の枝の場面をのぞいては、二人の接触があるのは、筆屋の前を通り過ぎるのを美登利が見送る場面と、例の格子門の場面だけである。この格子門の場面では、美登利の平常とは異なるさまが描写される。顔を赤らめ、どうすることもできずにただ立ち尽くし、相手のつれなさに涙を見せるこの美登利の姿は、恋する少女のものといって差し支えないだろう。
読者として「たけくらべ」という作品を読むとき、そのイメージはすでにあらかた固定化されているように思われる。それは、菅原孝標女が源氏物語を読んだように、昭和の少女達が吉屋信子を読んだように、と言ってもいい。読む前からある種のイメージが先行し、そのフィルターを通して読まれる、と言えるのではないだろうか。
私などは、「たけくらべ」の原文に触れる前に、さまざまなメディアを通して二次的な「たけくらべ」に出会っている世代である。有名ないくつかの場面は原文で読むこともあったが、メディアのフィルターを通したそちらの方が「たけくらべ」の原体験になっているといっても過言ではない。そんな私の中にあった「たけくらべ」のイメージは、美登利と真如を巡る、思春期の淡い恋物語であり、そのなかで正太郎の存在はかなり希薄であったように思う。
しかし、改めて読み返してみると、もちろんのことながら、正太郎は作中にかなりの割合で登場する重要人物のひとりであり、ほとんどが美登利と対になるために登場するといってよい。さらに本文中の真如の描写に比べ、正太郎の闊達さ、かわいらしさの描写の多いこと、詳細であることに気付く。それでは、美登...