表現活動は人間が社会で円滑に生きていくうえで、また、他者に自分の存在を理解してもらうために必要なコミュニケーションの手段であると考えた。社会が大きくなり、グローバル化、情報化が進み、円滑に社会を運営するために、メールという新しいコミュニケーション手段が誕生し、本来の人間が生まれもって備え持っている“まるごとのからだ”による表現力・コミュニケーション力が衰退し、今、社会が抱えている多くの問題(たとえば、非行、学級崩壊、ドラッグ、殺人、引きこもり、奇怪な犯罪など)を引き起こしていると考えた。そして、これらの問題は、さらに増加していくと考えたが、それは正しいのだろうか。
たしかに、これらの問題はコミュニケーションが希薄になることによって、自分の存在、他者の存在を理解することができなくなったことによって、引き起こされていると考えられる。たとえば、青年期の子どもがいい例である。青年期は子どもから大人へと生まれ変わる時期であり、不安定な情緒を経験するとともに、さまざまな心理的課題を解決しなくてはならない危機に直面するといわれている。そして、青年は親への依存心を宿しながらも反抗し、親から離れて自らの世界を確立しようとする。ところが、昨今では家庭における父親の存在感が薄くなり、また、親を批判したり反発したりする青年が少なくなり、コミュニケーションがますます希薄になっており、しかも、子どもに対して物分りがよく、危険から上手に守ってやる親の態度が、青年が自立したいという欲求をそいで、引きこもりなどの問題を引き起こしていると考えられる。しかし、私は本来、人間が生まれ持って備えている“まるごとのからだ”による表現力・コミュニケーション力が希薄になることによって、引き起こされているのではないと考える。
表現活動は人間が社会で円滑に生きていくうえで、また、他者に自分の存在を理解してもらうために必要なコミュニケーションの手段であると考えた。社会が大きくなり、グローバル化、情報化が進み、円滑に社会を運営するために、メールという新しいコミュニケーション手段が誕生し、本来の人間が生まれもって備え持っている“まるごとのからだ”による表現力・コミュニケーション力が衰退し、今、社会が抱えている多くの問題(たとえば、非行、学級崩壊、ドラッグ、殺人、引きこもり、奇怪な犯罪など)を引き起こしていると考えた。そして、これらの問題は、さらに増加していくと考えたが、それは正しいのだろうか。
たしかに、これらの問題はコミュニケーションが希薄になることによって、自分の存在、他者の存在を理解することができなくなったことによって、引き起こされていると考えられる。たとえば、青年期の子どもがいい例である。青年期は子どもから大人へと生まれ変わる時期であり、不安定な情緒を経験するとともに、さまざまな心理的課題を解決しなくてはならない危機に直面するといわれている。そして、青年は親への依存心を宿しながらも反抗し、親から離れて自ら...