江戸幕府開府当初から寛永期は、江戸幕府における大きな節目の時代であった。徳川家康が江戸幕府を開府し、徳川慶喜が大政奉還するまでの二六四年間の基礎を作ったのが、この寛永期であったと言って過言ではないだろう。この寛永期に幕府においては、幕府内政策、外交政策、大名・農民統制策など様々な政策が実行されてきたのである。以下では江戸幕府確立期の幕府政治について考察する。
寛永期の政治体制について述べる上で、不可欠なのが幕府職制である。徳川家康、家忠の時代には明確な職制は存在せず、家康を中心とする駿府の大御所政治、家忠を中心とする将軍政治で執政され、様々な権力派閥が形成されていた。この駿府と江戸の二元政治は徳川家光の頃に解消され、以後将軍の権力が強化されたのである。続いて一〇年には若年寄の前身である六人衆が設置され、翌年には老中・若年寄が設置された。老中は将軍の直属であり、重要政務を主務としていた。また、若年寄は老中を補佐し、役人や旗本・御家人の統括が主務であった。続いて寛永一二年には老中、若年寄、三奉行(寺社・若年寄・勘定)、大目付などの職務が分担されたのである。時代により若干の変更はあったも...