まず、ペティの生きた時代の背景だが、彼は1623年イギリスのラムジーに生まれた。当時のラムジーは一言で言うと新興小産業都市で、毛織物のマニュファクチュアで栄え、イギリス国民産業の主輪と言われていた。この町は毛織物工業という外交の盛んな輸出産業を通して広い国際的視野、進取的な性格を持っており、王政復古後の反動期においても非国教徒の力強い革新的な地区であった。そしてペティはこの町の織主の息子として生まれ、幼少期から大胆な思考とユーモアを交えつつも鋭さを失わぬ皮肉を蔵したおませで茶目な子供であった。教師から見ると怠け者に映ったようだが、好きなものには打ち込む性で、フランス語、ギリシア語を話し、ラテン語の詩をつくり、数学、実用幾何学、天文学を覚えこんでいた。また、仕事の覚えも早く、工匠の仕事を見よう見真似でのみこみ、12歳にして働こうと思えば何でもできるというほどの技術的な知識を会得していた。また、彼は一生を通して発明家としての仕事を続けている。この彼のたくさんの事に興味を持ち突き詰めていく性格は、後の彼の人生にも大きな影響を与えている。................
それまでの経済学では、流通部門自体を重視し、金・銀を基本的な富と考え、国内のみの富を主に論じた『重商主義』(この理論は市場自体を生産から相対的に独立した構造を持つ世界として捉えた点では優れていたが、社会的再生産という市場経済の理論分析にとって重要な概念が把握されていなかったのが欠点である。)、貨幣を商品の代価として捉え、貿易差額のプラス、つまり国王の蓄積しうる剰余が富であると捉えたトーマス・マン(1571-1641)の『貿易差額論』(この理論は国際流通面における収支の差額としての面から貿易取引を観察したが、貿易取引の基礎にある市場と生産の関係を理論的に把握することはできなかった。)などの理論があったが、彼は剰余を物流として捉えつつ、その剰余を生み出す源泉を人間の労働に求めた。
経済学史レポート
ウィリアム・ぺティ(William petty)(1623-1687) について
まず、ペティの生きた時代の背景だが、彼は1623年イギリスのラムジーに生まれた。当時のラムジーは一言で言うと新興小産業都市で、毛織物のマニュファクチュアで栄え、イギリス国民産業の主輪と言われていた。この町は毛織物工業という外交の盛んな輸出産業を通して広い国際的視野、進取的な性格を持っており、王政復古後の反動期においても非国教徒の力強い革新的な地区であった。そしてペティはこの町の織主の息子として生まれ、幼少期から大胆な思考とユーモアを交えつつも鋭さを失わぬ皮肉を蔵したおませで茶目な子供であった。教師から見ると怠け者に映ったようだが、好きなものには打ち込む性で、フランス語、ギリシア語を話し、ラテン語の詩をつくり、数学、実用幾何学、天文学を覚えこんでいた。また、仕事の覚えも早く、工匠の仕事を見よう見真似でのみこみ、12歳にして働こうと思えば何でもできるというほどの技術的な知識を会得していた。また、彼は一生を通して発明家としての仕事を続けている。この彼のたくさんの事に興味を持ち突き詰めていく性格...