M.ウェーバーの「プロテスタンティズムの論理と資本主義の精神」について。
M.ウェーバーはプロテスタント宗教改革時のヨーロッパに関心を抱いていた。著書『プロテスタンティズムの論理と資本主義の精神』によるとマルチン・ルターは1517年にカトリック教会と関係を絶った。ルターは修道院を廃止し、司祭が結婚できると宣言し、教会員が聖書を自分で読めるようにラテン語からドイツ語に翻訳した。ルターが強調したのは、普通の人々を神に繋ぐ唯一の存在としての司祭の権力を破壊することだった。
このことにより今後司祭はできうる限り普通の人々と同じようにならなければならなかったし、人々は神に近づく自らの方法を見つける必要があった。そこでプロテスタントはカトリック礼拝の込み入った典礼を廃止し、代わりにだれもが参加できる讃美歌合唱を設けた。ウェーバーはこれらの変化すべてが宗教を世俗社会で今までより強い力にしたのである、と指摘した。世俗社会は、誰もが自分自身の救いを切り開かねばならない場所であった。よって、宗教は社会的動機として一層協力になる必要があったのだ。
これらは政治的な理由により北ヨーロッパの多くの国で受け入れられた。法王の権力を廃止し、それぞれの国に自己の教会を設立させたからである。しかし一部の地域では、フランスのように長い闘争の末、市民戦争となりカトリック教との勝利に終わった国もある。
ウェーバーが宗教を近代資本主義を生み出すのに大きな影響を及ぼしたとみたのは、このような脈絡においてであった。
この後プロテスタント諸教会は英国は、英国国教会、ドイツはルーテル教会、スイスは多くの独立都市国家があり、プロテスタンティズムの急進的な形態が出現するなど様々な派に分裂した。
スイスでのプロテスタンティズムの急進的な形態の出現は、チューリッヒのツウィングリとジュネーブのジョン・カルヴィンという改革者の指導であった。資本主義に最も重大な影響を及ぼしたのは、カルヴィンの神学であったとウェーバーは考えた。
しかしこの中には、いかなる国家にも支援されないという意味合いでまったく私的なプロテスタント集団も存在した。敬虔派とよばれる派閥である。敬虔派は、宗教的要求をあらゆるものにまでおよぼし、社会的秩序を脅かすこととなる。プロテスタンティズムがカトリック教会の権威を打ち砕いた時、様々な宗教的立場への道が開けた。ウェーバーはこれらを新しい宗教思想の幕開けとした。
しかしそれ自体が一種の不安材料となったという。なぜなら当時の人々にとって説教を聞きに行くことが一つの娯楽とされていた。来世は天国か地獄かということは絶えず人々の耳に吹き込まれていてどのようにして救いを成就するかという問題は重要な問題であった。特に、正統的な見解が、様々な考えが対立したために、不確かなものになってしまったからである。
この宗教的緊張によって強い関心を持ったのは、自己を救済するためならなんでも行うということであった。このことにより、宗教的緊張は社会的動機の重要な源であったとウェーバーは考えた。この状況で最も挑戦的な神学的立場はカルヴィン主義者のものであった。
カルヴィンの教義の重点は予定説であり、神は全知全能であるから、神がなすことができないこと、また知らないことは何もない、という考えであった。この予定説は地獄の責め苦が生々しい現実に思える人々の間に大きな不安を引き起こすこととなった。
カルヴィンがわれわれはみな罪人なのだ、それゆえすべての人が地獄に行くのは当然なのだ、と宣しても事態は救われなかった。以前までの善業による救
M.ウェーバーの「プロテスタンティズムの論理と資本主義の精神」について。
M.ウェーバーはプロテスタント宗教改革時のヨーロッパに関心を抱いていた。著書『プロテスタンティズムの論理と資本主義の精神』によるとマルチン・ルターは1517年にカトリック教会と関係を絶った。ルターは修道院を廃止し、司祭が結婚できると宣言し、教会員が聖書を自分で読めるようにラテン語からドイツ語に翻訳した。ルターが強調したのは、普通の人々を神に繋ぐ唯一の存在としての司祭の権力を破壊することだった。
このことにより今後司祭はできうる限り普通の人々と同じようにならなければならなかったし、人々は神に近づく自らの方法を見つける必要があった。そこでプロテスタントはカトリック礼拝の込み入った典礼を廃止し、代わりにだれもが参加できる讃美歌合唱を設けた。ウェーバーはこれらの変化すべてが宗教を世俗社会で今までより強い力にしたのである、と指摘した。世俗社会は、誰もが自分自身の救いを切り開かねばならない場所であった。よって、宗教は社会的動機として一層協力になる必要があったのだ。
これらは政治的な理由により北ヨーロッパの多くの国で受け入れ...