ヘーゲルの著書、その『序論』から感じたのは、とにかく著者の沸き立つような若々しさだった。『序論』は『精神現象学』の本体が書かれた後に書かれたにもかかわらず、本体を要領よくまとめるどころか、その先へ行こうとしてしまっていて、やはりそれもまた「すでにあるもの」ではない「未だないもの」へ向かっての運動になっている。行っては戻り、戻っては進み、おなじところをリングワンデリングしているかのように見えながら、しかし振り返ると確実に、以前とはわずかに違う場所に出ている、そうした運動においてしか書くことができないものをヘーゲルさんが書こうとしていることがよくわかる。もちろんこれは「意識」がすべてを経巡った後に「絶対知」という地平において自己自身へと最終的に回帰する、その循環のなかにすべてを閉じこめようとしたヘーゲル哲学に反しているのだろう。彼にとって「いまだない」ものは、実は「すでにあるもの」の視点から懐古的=回顧的に見いだされるだけだから。それはそうなのだが、少なくとも『精神現象学』の不安定な構成と線条性に欠ける叙述のなかには、そうしたヘーゲル自身の目論みをも裏切るような要素がぐつぐつ煮えたぎっているような気がした。ヘーゲルがこの著作を新カント派的なきれいな体系にまとめきれなかったという事実そのものが、「絶対的な現実態についての認識の営みが自らの本性を完全に明確に知り抜く」という境地の永遠に訪れないこと、したがって認識の運動はつねに運動として運動し続けるしかないことを予示している。
私は子どもの時から、世界と言葉とはどのような関係にあるのかが不思議だった。たとえば、世界のすべてを言葉で表すことは簡単だ。「すべて」と言いさえすればいいののだ。
ヘーゲルの著書、その『序論』から感じたのは、とにかく著者の沸き立つような若々しさだった。『序論』は『精神現象学』の本体が書かれた後に書かれたにもかかわらず、本体を要領よくまとめるどころか、その先へ行こうとしてしまっていて、やはりそれもまた「すでにあるもの」ではない「未だないもの」へ向かっての運動になっている。行っては戻り、戻っては進み、おなじところをリングワンデリングしているかのように見えながら、しかし振り返ると確実に、以前とはわずかに違う場所に出ている、そうした運動においてしか書くことができないものをヘーゲルさんが書こうとしていることがよくわかる。もちろんこれは「意識」がすべてを経巡った後に「絶対知」という地平において自己自身へと最終的に回帰する、その循環のなかにすべてを閉じこめようとしたヘーゲル哲学に反しているのだろう。彼にとって「いまだない」ものは、実は「すでにあるもの」の視点から懐古的=回顧的に見いだされるだけだから。それはそうなのだが、少なくとも『精神現象学』の不安定な構成と線条性に欠ける叙述のなかには、そうしたヘーゲル自身の目論みをも裏切るような要素がぐつぐつ煮えたぎってい...