論評 メアリー・カルドー「新戦争論」
冷戦後、戦争の形態は劇的に変化しており、今までの戦争のイメージでは今世界に存在する「新しい戦争」は理解することができない。地球規模の諸紛争を分析し、この「新しい戦争」を概念化しているのが「新戦争論」である。
筆者は「新しい戦争」の特徴を序論で3つ述べているが、その中で「新しい戦争」はグローバリゼーションの影響を強く受けている、という点に大変共感した。第2章で「旧い戦争」について述べられ、「新しい戦争」と対比されているが、それらを踏まえて考えると「新しい戦争」はグローバリゼーション抜きでは考えられないと思う。
「旧い戦争」によって経済と政治の区別や民事と軍事の区別、また戦争と平和の区別などが生じるようになったが、それらは「新しい戦争」では区別がつきにくくなっている、と筆者は第2章で述べている。これはグローバリゼーションの影響によって国内のノー・ボーダー化も起こっているからだと考える。
また、グローバリゼーションの中心的関心は「世界的な相互連繋が近代国家の将来に対してどのような意味を持つのか」ということであるが、アフリカ、東欧またその他の国々における新しい組織的暴力の原因や拡大は、犯罪や軍事力の脱国境化など、グローバリゼーションの負の側面でもあるのだ。
このように「新しい戦争」の原因はグローバリゼーションによる様々な事柄、特に犯罪など負の事柄の脱国境化にある。それを解決するためには世界規模の法を整備し、執行することによってグローバル化する犯罪を厳しく取り締まることが何より重要だと私は考える。この法は世界中の人々の人権を守る法があるという前提が必要であるが、そのことについては追って述べる。このことについては新戦争論出版以前に出された本の中で筆者が同じ事を語っていると訳者あとがきで述べられており、筆者の考えに大いに賛同する。
「新しい戦争」は自集団中心的なアイデンティティ・ポリティクスを標榜している集団が協力しあって市民性や多文化種主義といった諸価値観を抑圧している戦争、また排他主義といったコスモポリタニズムの間の戦争であり、それに対抗する唯一の対応は政治によるものであると筆者は述べている。「新戦争論」の中で鍵となっている「正統性」を持った権威を再構築するというものだ。
筆者はボスニア・ヘルツェゴビナやルワンダの例を挙げ、「孤立散在した市民勢力」について述べているが、こうした勢力を築くことが正統性の回復には必要なことであると私は考える。またこうした勢力を経済的に支援することは重要であり、「正統性」を持った経済戦略が必要だ。筆者もエピローグで同じようなことを述べているが、この経済支援を行うためには行う側にも「正統性」が求められることを忘れてはならない。経済支援をする側に正当性がなければ、第5章で述べられているように、経済が「新しい戦争」の泥沼化に影響を与えることになりかねないと考える。それらを踏まえた上で、「復興」という概念は正当性を持った人々が正統に生きる術を再構築するものでなければならない。
正統性のある経済や政治は、人間の価値、寛容、包容性、そして社会主義に基づくものでなければならない。筆者は人間の多様性に対する尊重を意味するものとして「コスモポリタン」という言葉を使っており、「新しい戦争」は戦争、犯罪、人権侵害が混ざり合ったものであり、人道法や国際的人権法の執行をコスモポリタン法の執行という形で「新しい戦争」の犯罪性に厳しく対処していくことが欠かせないという問題関心に結び付けられている。しかし、この政治や経済をもコントロールできるような法は本当にできるのであろうかという疑問を持った。世界平和を目的とした法をつくろうとしている動きがあることは知っているが、この筆者の考える法を法学者はどのように思うのか、それは世界での執行が本当に可能になるのか、ということを知りたいと思う。世界人権宣言は法ほどの執行力はないが、それでも全世界に承認されてはいない。それにもかかわらずコスモポリタン法が世界で受け入れられ、執行されるようになるとは私は思えない。
しかし、今何より重要であるのは、人々が今現在起こっている戦争は今までの戦争とは違い、対処の方法も変えていかなければならないということを理解することである。エピローグにあるように、9・11テロへのブッシュ政権の対応が「旧い戦争」のものであるため、対立は泥沼化している。このままでは「新しい戦争」は世界中で増え、筆者の述べるように「文明の終わり」を迎えてしまう。そうならないためにも、多くの人々が「新しい戦争」を認識し、世界レベルでの対処法を模索できるようにしていかなければならないと考える。
(1934字)
2