マックス・ウェーバーの『職業としての学問』を読んだ私は深い感銘を受けた。マックス・ウェーバーの講演は現代社会と少し異なるところもあるものの、教師たるべき資格、学者としての心構えに対する見解は現代においても通用する。
マックス・ウェーバーが講演を行った歴史背景を見ると、当時ドイツは第一次世界大戦で敗戦し、戦争に熱狂していた大学生たちが意気消沈して「個性」、「体験」、「指導者」を求めるようになった。マックス・ウェーバーはこういう大学生に対し、学問と政策の峻別を説く名高い講演を行ったのである。彼はドイツの青年たちに「日々の生活に帰れ」と叱咤し、聴衆たちを脅かすような印象を与えたという。
マックス・ウェーバーは「職業としての学問」という講演で、主に三つのことを説いた。一つは、学問を職業とする経済的な現状、教員として認められる際の僥倖の支配。二つ目は、学問に専心する際の心構え。日々の個々の仕事への集中が必要であり、学問は次なる研究者によって打破されることを祈りながら進めていくもの。三つ目は、教員は指導者になってはいけないことを強調。つまり『預言者や扇動者は教室の演壇に立つべき人ではない』、批評のできない教室という場において事実のみを話し、何らかの立場に立って話すべきではないと説いた。
マックス・ウェーバーは講演で上記に書いたような三つのことについて語ったが、私はここでその一つを選んで自分なりの感想を入れながら述べたい。マックス・ウェーバーは講演の始めのところにおいて、当時ドイツにおける教師という職業はどういうものだったかを、対照的なアメリカと比較しながら演説をした。というのは自分を知るためには必ず自分と違う他者を観察しなければならないからである。その時のドイツとアメリカの対照的事情を以下の表でまとめて、ドイツのプラス点とマイナス点、それからアメリカのプラス点とマイナス点を明らかにする。
『職業としての学問』の読後感
― 学者としての生き甲斐 ―
マックス・ウェーバーの『職業としての学問』を読んだ私は深い感銘を受けた。マックス・ウェーバーの講演は現代社会と少し異なるところもあるものの、教師たるべき資格、学者としての心構えに対する見解は現代においても通用する。
マックス・ウェーバーが講演を行った歴史背景を見ると、当時ドイツは第一次世界大戦で敗戦し、戦争に熱狂していた大学生たちが意気消沈して「個性」、「体験」、「指導者」を求めるようになった。マックス・ウェーバーはこういう大学生に対し、学問と政策の峻別を説く名高い講演を行ったのである。彼はドイツの青年たちに「日々の生活に帰れ」と叱咤し、聴衆たちを脅かすような印象を与えたという。
マックス・ウェーバーは「職業としての学問」という講演で、主に三つのことを説いた。一つは、学問を職業とする経済的な現状、教員として認められる際の僥倖の支配。二つ目は、学問に専心する際の心構え。日々の個々の仕事への集中が必要であり、学問は次なる研究者によって打破されることを祈りながら進めていくもの。三つ目は、教員は指導者になってはいけないことを強調...