遊ぶのは後で
「光速度一定」は我々が受け入れなければならない 新しい常識なのか?!
悩んでも無駄
時間が縮むとか、棒の長さが縮んで見えるとか、宇宙を旅して帰ってきた双子の片割れの方が歳をとらないとか、相対論と言えば大抵いつもその話であって、今回もそれを期待した人がいるかと思う。 あるいは今回こそなぜそのような事が起きるのか理解できるのではないかと期待してこの文章を読んでくれている人もいるかも知れない。 しかしそのような人には期待を裏切って悪いのだが、ここにそのような面白い話についての解説を挿入するつもりはなくて、それよりも質量がエネルギーと等価であることを示す有名な E=MC2 の公式がどのように導かれるかという解説に向けて急ごうと思うのである。
ここではっきり言っておいた方がいいと思うのだ。 特に「いつか相対論を理解出来るようになりたいんです」と言っている人たちに言わねばなるまい。 いくらこのような不思議な話について真剣に考えたところで、表面上の理解にしかならないことに気付いて欲しい。 いくら考えても「なぜそうなるのか?」という疑問の答えは見出せなくて、結局はローレンツ変換からそう言えるという答えしか用意されていないのである。 それらの楽しい話題はローレンツ変換をいじれば自然に導かれる結果なのである。
しかし、ローレンツ変換から導かれる結果について考えるのは全くの無駄だというわけではない。 ローレンツ変換が信用に足るものかどうかは、そこから導かれる結果と実際を比べてみる他はない。 これが科学の方法であって、ローレンツ変換から何が言えるのかということを把握しておくことはとても大切なのである。 そういうわけで、いずれこのような話題についての解説を軽い気持ちでコラムとして書き始めることがあるかもしれない。 しかしその時は、読者の脳力を無駄な思索に費やすように誘い込むことが目的ではないので奇妙な話だったとしてもあまり悩まないようにしてもらいたいと思うのである。
とにかく、ローレンツ変換をいじくりまわして遊ぶのは後回しにしようと思う。
しかし本音を言えば
ローレンツ変換から導かれる結果は、少なくとも今までの実験の結果と比較して矛盾はないようである。 ローレンツ変換が正しいであろうということになれば、次に考えるべきことは「では、なぜ、光速度は一定なのか」ということであって、私が一番関心を持っているのはその点なのである。 しかし残念ながら、その答えは相対論の中には用意されていない。 何度も言うように、相対論は「光が誰から見ても一定の速度である」ということを前提としている理論だからである。 それであるから、光速度が一定であることについて疑念を差し挟むような議論は相対論の枠外で行わなければならない。 そうしなければ、疑似科学のレッテルを貼られても仕方ないだろう。 しかし、ここでは本音を語ろうと思う。
現代物理は光の速度が一定であることの理由を追及することを完全にあきらめてしまったように見える。 ある意味、それが新しい常識として定着してしまったようである。 果たしてそれを受け入れるべきなのだろうか? しかし、自然をそのまま受け入れる謙遜さと同時に自然に対して不思議に思う気持ちを忘れてはいけないと思うのだ。 そしてその思いが科学を発展させてきた。 ただ自然を受け入れるだけなら理論なんて要らない。 人間に理解し難いことをより低いレベルの事柄から説明できるのが物理の面白いところだと私は考えている。 光速度一定の原理はもはやこれ以上進めない、一番低い階層の知識だというのだろうか? 人類はもう既にそこに到達してしまったというのだろうか? そう考えるのは驕りのように思うのだ。
私は、人類はその壁を乗り越えてさらに深くこの宇宙を理解できると思う。 この考えの方が驕りのように思えるだろうか? 宇宙はそんなに浅くはなくて、我々はまだ表面上の理解に達しただけだと、謙遜な思いからそう考えるのである。
だって、ワープ航法も重力制御もまだ出来てないじゃないか。 そんなのはいやだよー。 これが本当の本音 (^^;
資料提供先→ http://homepage2.nifty.com/eman/relativity/letsplay.html